2025年6月26日木曜日

「傲慢と善良」と恋愛弱者の雑がたり

 



辻村深月「傲慢と善良」を読み終えた。作品としては400頁あって、ミステリー要素も程々に読み応えがある。

毒親などのような、人の「無意識に使われる悪意に近しい行為・言動」の嫌ったらしさがこれでもかと詰め込まれていて、思い当たるものもあり、印象に残った作品ではある。

ただ、僕にとっていまいち腹にしっかり落ちてこないのが、この作品がそもそも恋愛小説である事が原因だと思う。


そもそも僕が相当恋愛に対して非常に疎く、多分彼女が居た全期間は数週間程度しかない。しかもその期間も状況が微妙で、彼女じゃなくね?という説もある。

何回かデートに行って、毎回誘ったら来てくれていたのでこれは、と思い、いざ告白したら、ものすごい申し訳無さそうに「すいません、始めから全く興味が無かったです・・・。」と言われたこともある。(この状況はたまに夢に出てきて、「2秒前までならOKを出した。」等の色々なバリエーションがある。)

ちなみにこの時はショックすぎて、帰りの電車で一緒になった振られた相手と、振られるまでの感想会をオーディオコメンタリー的に話して帰るなどした。あまり詳細は記憶に無い。

あと、告白が成功した1~2週間後に突然対応が冷ややかになって別れを告げられたこともあり、後に蛙化現象がテレビで特集されてた時に「これかー!」と感動するほどの合点がいったこともある。

その他にも自作小説を書く相手が分厚い本を指定して「これを読んだ上で書いてる小説を読んで感想を聞かせてください。」と言われ、なんとか両方とも読み切って感想を次回のデートで話したら振られたり、バーベキュー場で他の知人、友人がいる前でガン詰められたこともあり・・・。

その他にも色々あり、今思えば変な経験ばかりで「恋愛ってマジで面倒くせぇな・・・」と早々にうんざりして諦めてしまった。

なので、恋愛というものに相当なバイアスがある。

もし、ミステリー作品なのに後半から急に恋愛色が出てくるとか、そういう”変異”が起こるとそっと本を閉じてしまうかもしれない・・・。いや、いざ結婚のタイミングで結婚相手に「お前がこれまでの連続殺人の犯人だ!」みたいな事を言う作品なら読みたい。

・・・話を戻すと、恋愛要素全てを人生から除外してしまう事は果たしてどうなのか。貴重な恋愛小説などの作品(音楽なんかはラブソングが多いし、詩も題材としてよく出てくる)を芯から楽しむ機会を損失していることになる。凄くもったいない。


せめて恋愛小説で感動出来るぐらいの経験があればなぁと、今更になって思ったりする。


トップのイラストはcopilotに「恋愛弱者の叫び」をイラストで表現してもらった。

なんかドラゴンボールにこんなシーンあったな。

2025年6月25日水曜日

見てないアニメをうっすら知っている状況と、アニメオリジナルの話

 毎シーズン、一応は一通りのアニメをチェックしているけど、見れる作品を全部見て、徐々に減らしていた昔ほど熱心に追うこともなくなり、1話もしくは作品PVぱっと見で良さそうな作品を2~3作ほど見て、最終的に1~2作品を最後まで見る。それ以外の作品は後に見たくなった数年後とかに纏めて見るといった感じに落ち着いた。

そんな中、覇権アニメについては意識せずとも作品ファンがSNSでイラスト、動画、ツイートを流すので、見てなくてもぼんやり作品の内容を知っているという状況になる。今回だと、ジークアクスとシングレがそんな感じ。

とはいえ、ネタバレにそこまで敏感になっているわけでもなく、それらを見て逆に「そういうシーンがあるなら見てみようかな」みたいな事が起こるので特に問題ない。

むしろ最近悩ましいのは、漫画原作の場合に先に原作を読むかどうか。

面白い作品だと、やっぱり先が気になる。でも漫画で先の話を読んでしまうとアニメで見る理由が弱くなってしまう。特に、作品として優れている漫画の場合は漫画としての迫力で満足してしまって、そこから視聴を止めてしまう事が多い。

ちょっと前にあった話で、チェンソーマンのアニメは期待ナンバーワンで送り出されたが、あまり振るわなかったのは優れた原作があったからというのもあるんだろうと思う。

じゃあ、アニメが完結するまで漫画を買わないとするのも難しい。続編が何年も後に発表されることもあるので、警戒して一生買わずにいる状況になり、そんな事してるうちにいつの間にか視聴意欲が薄れてしまう。

なので、僕の中では原作があるアニメは、毎回アニメと漫画はどちらで見るかを選ぶ形になる。

そういう迷いがないので助かるのは、アニメオリジナルの作品になる。

そんなわけで今季はアニメオリジナルの「アポカリプスホテル」をかなり推して見ているけど、意外と知名度が無いことに驚く。やっぱり漫画原作と比べると宣伝の材料が少なくなるんだと思う。個人的には凄く面白いと思うんだけど・・・。

漫画原作とアニメオリジナルはどちらも難しい問題を抱えている気がする。

2025年6月24日火曜日

読書スランプ

 ここ1ヶ月くらい、読書スランプっぽい状況になっていた。

読んでも頭に入らず、とりあえず短い作品を読んだり、詩を少し読んだりしていたけどなかなか戻らない。

こういう時はとにかく読める本を探す。短編に限らず、とりあえず目を通す。

1行読んで無理そうならすぐやめる。積んでる漫画を読む。関係ない動画を見る。あとはよく寝る。

ある時、VRChatで町田康氏の「きれぎれ」という本をおすすめされた。出かけて書店に立ち寄った際にふと思い出して購入。

2~3日積んでから、時間が出来た時に軽く開く。

文体が非常に独特で、現実と非現実を混在させたような描写が続く。想像がつかなくて脳に負担がかかる気がした。

以前、色川武大の「狂人日記」を読んだことがある。

精神を病んだ主人公と、その妻との生活を描いた作品で、やりきれない悲壮感も相まって大変印象に残っている。

こちらも非現実と現実を混在させたような描写があるが、「きれぎれ」はまた違った味わいがある。苦しさもありつつ明るく気安さも同居した感じ。

珍しい作品なので、休み休みではあるけど読み切った。2作品収録されていたが200頁ほど。

それから少し読めるようになった。スランプを完全に解消したわけではないけど、多少気が楽になった気がする。

今日は、おすすめされた松本清張の「点と線」を読み終える。今まで堅いイメージがあったので手を出さなかった作家だった。

実際、内容は堅いけど、想像よりは楽に読めた。

もっと目線を広げて、積むかもしれなくても色々な作品に手をだしてみようと思う。

2025年6月22日日曜日

ファッションのよくわからなさとか

 


海外の動画でこんなのがあった。

ファッションウィーク(世界各国でファッションブランドの新作が発表されるイベント。なんかおしゃれな人が呼ばれたり集まってきたりするので、それをファッション系記者が撮りに来る)の最中に、モデルでは無い友人に「ありえないファッション」をさせると、記者がどう反応するか実験をしたというのがあった。

友人は梱包材をマフラー代わりに巻いたり、謎のクソデカイヤリングやホームセンター?に売ってたサングラスをつけて堂々としていた。

すると次第に記者が集まりだして、注目の人物として大変な騒ぎになったという事だった。

そこからその動画では「こんな適当なファッションで記者が注目するなんて、ファッション業界は過大評価されている」というような纏め方をしていた。


今まで見たことがないような、自分の評価軸の外側の物を見ると、「なんかすげぇ!」となることはあると思う。

本とかでも新しい表現をしてるとなんか良いと思うことがあるし、随分前に音楽を作っていた時には適当にサンプラーを使ってリズムとか全く考えずに音ネタを鳴らして作った曲が音楽好きな友人に刺さったこともあった。

確かに過大評価な面もあるかもだけど、ファッションウィークみたいな特殊な場所に集まるような人たちが見たいのは、固定概念を打破する表現であって、むしろ今までは「ありえない」と思われていた物を堂々と提示されることこそが重要で良いと感じるんではないか。


というか「ありえない」は結構難しい。どうしても整然としてしまったり、ありきたりの表現をしてしまう。しかも1回だれかが行えば、もう「ありきたり」で「二番煎じ」になってしまう難しさ。

その難しさの先にある新しい表現に気がつく事が、そもそも相当大変であり、奇跡的な事であり、重要だと思う。

しかしこれは、既存のものを使わない、という事とは違う。

某ブランドでは、お菓子の袋まんまのレザーバッグを作ったり、IKEAの袋のバッグをこれまたレザーで作ったり、服を裏返して縫い目が見える側を表側としたり(インサイドアウトとか言うらしい)、身の回りで何となく消費したり、表に出ずに見逃しているものを改めてファッションとして取り上げ、評価の台に上げる。

既存のものだからこそ気が付かない「デザインの面白さ」に気付けるというのも「新しい表現」に繋がるのだろう。



要は、このファッションウィークという特殊な空間での「ありえないファッション」は、「大勢が着ているような纏まっていてつまらないファッション」であって、「見たことがない、意味がよくわからないファッション」はむしろ評価・歓迎されるものだと思う。


じゃあ、おしゃれな人ごとのファッションの根底に流れるテーマとか、そういったものは無意味なのか、という話。

「このファッションのテーマは・・・」と、ストリートファッションスナップなんかでインタビューされていると答える人は多い。

そういうものが無いと芸術性が感じられないのではないか。


でも、そもそもテーマなんて、多分何かモノを使えば何かしら勝手に出来上がると思う。

前に、作品を作っている時は何を書きたいのか、簡単に表現できないし自分自身も分からないという作家の話を見たことがある。

「ありえないファッション」で作られた、訳の分からなさ、つまり理不尽さは見る側に想像させる余地を与えるので、後から熱心な観客により勝手にストーリー、テーマが組み上がっていく。

実際、ファッション以外の文学や芸術作品において、ランダムな文章や図柄を組んだとしても、読み取る側が熱心であればバックグラウンドのテーマは勝手に組み上がるだろう。

このように作者本人が意識しているか無意識かに関わらずテーマは作られ、そしてそういう形でテーマが出来上がるというのは正しいように思う。

つまり、このファッション作品のテーマは、「ありえないファッション」として「適当に」組み上げた中に、実は確かに宿っている。


その意味で、「ありえないファッション」を提示出来たスタイリストが、意識的か無意識的かわからないけど結果的に「ありえなく」することが上手くできちゃったんじゃないかとも言える・・・かも。


ちなみに画像はgrokで「ありえない尖ったファッション」を依頼した結果。

まだやれるだろ!もっと尖れよ!

2025年6月21日土曜日

夏にライダース購入

 以前より革のジャケット、特にライダースジャケットが欲しかったけど、厳ついファッションが似合わないので着画を見るだけで我慢していた。

しかし、僕は全然おしゃれなんかでは無いくせにファッション熱は高まるばかりで、つい先日フリマサイトで割と安く良さげな羊革のシングルライダースのサイズピッタリ(っぽい)ものが出品されていたのを見かけて迷い始めた。


大体の場合、僕が金額以外に魅力を感じて迷ってる状況は"欲しい”に強力に繋がっているので、後で買ってしまっている事が多い。


ちなみに僕は身長の割に肩幅があるので、服を買う時に大体大きめになってしまう。

よくあるのが、肩幅が合わないので店員さんにワンサイズ上を勧められるか、

「あー、タイトめに着れてますねぇー。」

みたいな感じでぼかされるケースだ。

この言葉を真に受けて買うと大体着ぶくれして小学生みたいになるか、肩が強調されたガンダムみたいな感じになって失敗する。


本来ここは慎重にならないといけないので、下手に手を出すより試着できるものを選ぶべきだとは思う。

ただ、問題は最近寝不足で脳が弱っていた事だった(と思う)。

一応、「買わないけど」肩幅を「念の為」測ってみる。肩の骨からもう一方の骨の位置まで、タオルを肩にかけるように首裏を経由してメジャーを当てる。

42cm。

欲しいライダースの肩幅が44cmなので、2cm程度余裕がある。アウターなんかだと大体それぐらいの余裕は持っていたほうが下にニットなんかを着れるので丁度いいじゃないかと思い始めた。


そして、何度も販売ページを見ては消してを繰り返し、着ている姿を想像した。

(ちなみに想像上の自分は、本来の自分の10倍増しに服が似合っている事が多いので、大抵は買った後に多少後悔する。)


そしてついに深夜の寝れない時、おそらく衝動を抑える脳の機能が一番弱まっているだろうタイミングで腹に力を込めて「ウッ!」とか言いながら購入してしまった。

ついにライダースに手を出してしまった・・・スクーターすら乗ったことが無いのに。

この時はかなりの幸福感に包まれていた。




翌日、ライダースが届くまで楽しみだったので、レザージャケット関連の動画を見ていたら、肩幅の正確な測り方の説明がされていた。



「肩幅を測る時は、肩の骨の先端から、首の裏の頚椎の出っ張りを通ってもう反対側の・・・」




ん?

頚椎の出っ張り?







改めてその測り方をすると、僕は肩幅が44cmもあることが明らかになった。



え、私の肩幅デカすぎ・・・?

てか、肩パツパツになるのでは・・・?



この瞬間、脳内では”残念”という言葉が駆け巡った。







もう相当にげんなりしつつも、ライダース着用動画を眺めていた。

本来ならこういう感じに着れているだろうなぁ、という想像をしながら他の人のライダースへのこだわりをひたすら語る動画なんかを流し見していた。



しばらくして、ライダースジャケット初心者の為に着た時のサイズ感を紹介する動画を見つけた。

その動画によると、ライダースは肩幅ピッタリで着る方が良いとのこと。

また、羊革なので伸びも多少考慮出来るとのことだった。





先ほどまで打ちひしがれていたのが一気に形勢逆転し、希望が見えてきたことに、そしてライダースジャケットと肩幅の神に感謝した。神はいる。




ちなみに届いたのがこれ。


実際のジャケットの肩幅は44.5cmだったらしく、薄手のニットを着込めるくらいにちょうど良かったので、大分いい買い物が出来たんじゃないかと思う。

夏に着る気概は流石に無いけど、秋冬春と楽しみが増えたのが嬉しい。



追記

その後、某フリマサイトでより安く売られているのを見かけた。

神はいない。

2025年6月16日月曜日

上林暁の本を読み直す。語ること。

鬼籍に入られた永田希氏の「再読だけが創造的な読書術である」を読んだ。
度々読み直すが、読むたびに読書の力みを解いてくれる気がする。
わかってはいても、いつの間にか読書に身構えてしまう。
そんな時に永田氏の本や、若松英輔氏の本で力を抜いてからまた読む気力を蓄える。
(とはいえ、読めない時は読めないから、その時は寝っ転がったりしている。)

その勢いのまま、芥川龍之介の「河童」、上林暁「星を撒いた街(夏葉社の新装版)」のいわゆる病妻物の一編を読む。
上林の病妻物は苦手だったが、少しだけ読めるようになった。

彼女や妻を支える感覚が想像でしか無いので、どうにもマイナスなイメージしか湧かない。
文学の読み方として、体験していないことは大きな負債なんだろうと思う。
とはいえ、その辺はどうしようもない。

上林の作品は、風景描写の色彩感覚と、僅かな出来事に対する感情の表現が細やかだと思う。
後に出版された本では意外と子供には厳しい人であったと書かれていたのは意外だった。
(それでも当時の基準では普通のようで、尊敬はされていたんだろうと思う。)

せっかく読んでるんだし、尾崎一雄との違いをもっと明確に言葉にしたいな、と思う日々。


こんな感じで思ったことを特段厳密に証明をせずに書いているのは、リハビリ代わりになっているかもしれない。
若林氏の作品で「書くことと読むことは呼吸と同じ関係」とあってから実践している。


先日、VRChat読書イベントで語ることの重要性を語ってもらえた。
間違いを厭わず語ることがお互いの世界を変えるかもしれない。
雑然とした解釈の中で生まれる思考もあるかもしれない。
そんなことを思いつつ、本を呼んで感想を言い合うのは楽しい。

2025年6月10日火曜日

動物が話す話①

大学を卒業した後、就職した会社が遠かったので都心から少し離れた場所で一人暮らしを始めた。
当初は日々の体験が新鮮で、実家の自室と同じくらいのワンルームの部屋も、スーパーでの買い出し、掃除や洗濯、1時間ほどかかる会社と自宅の往復も苦ではなかった。
満員電車も、初めは辛かったけど次第に上手い具合に力を抜いて立っていられるコツを得ていた。
しかし、半年もすると徐々に毎日の繰り返しが苦痛で面倒だと思うようになった。
だからといって休日に何か新しい事をするやる気も出ない。
自分から何かを変えようと、いつもは通らない商店街を歩き回った時に見かけた花屋で、売っていた小さいサボテンを買ってみた。
少しでも生活に変化が欲しかったのかもしれないが、その程度で意識が変わるようなものでも無かった。
サボテンへの水やりも、すぐに繰り返す日常の一部と化していった。

ある日、会社でいつものように頼まれた見積もりや提案資料を纏め、昼に食事用のスペースへ。
コンビニで買ったサンドイッチのフィルムを開けていると、隣のテーブルに居た女性社員2人から、飼っている動物の話をしているのが聞こえた。
猫を飼い始めて世話が大変だけど、生活に張り合いが出てるような気がする、といった事を話していた。
その時は特にそれ以上気にかかることも無く、いつも通り食事を終えると席に戻って資料の続きに手をつけた。

それから数ヶ月、休みの朝に寒さを感じ始めた頃にたまたま見たYoutubeのおすすめ動画で、お買い得なコートがユニクロで売っていると知った。
他に用事も無いので、電車で隣町へ向かう。
ショッピングモールで目当てのコートを見つけるも、言うほどかなぁとイマイチしっくり来なかったので、軽く店内を見て回った後に何も買わず店を出た。
せっかく足を伸ばしたところで昼を食べて帰ろうかと考えていた時、モール内にあるペットショップに差し掛かったところで足が止まる。
特に何かを飼うつもりもないけど、昼まで時間があったのでペットショップを覗いて行くことにした。
店内は動物園で嗅いだような匂いが少しだけしたが、何故か不快な感じがしなかった。
しばらく色々な動物を見ていると、ふとハムスターの飼育ケージに目が止まった。

犬猫ほど飼うことに負担が無いはず。
ケージの中のジャンガリアンハムスターを見ていると、寝ていたり、回し車に乗っていたり、
外を不思議そうに眺めていたりしている。

僕はハムスターのそれらの仕草が何かしら考えて行動している様に見えて、しばらく様子を見ていた。
その後、店内を少し見て回った後にその日は昼食を取って帰った。

その夜、寝る前の空いた時間にいつものようにYoutubeでおすすめ動画を見ようとしていた時、思い出したようにハムスターの飼育について調べることにした。

寿命は種類にもよるが2年ほど。気温には気をつけなければならないが、餌と水、トイレの処理を怠らなければそこまで大変ではないと載っている。
ペットショップのオンラインサイトを見ると、ケージや床材、餌も大した額ではない。
2階建てのケージもあり、ハムスターのサイズから考えると僕が住んでいるワンルームより広いんじゃないか、なんて事を考えながら関連商品をしばらく眺めていた。

「ペットを飼うと、生活に張り合いが出る。」
あの言葉が頭の中で無意識に反芻していた。
今思えば、僕は密かにハムスターを飼うことを既に決めていたようだった。

四十九日に会いに行く

まだ若い親戚が亡くなって、四十九日になったので御参りさせてもらった。

ご両親の話を聞くと、他に来たのは親友数人くらいらしい。

「あまり来てくれる人も少なくて、来てくれるだけでも嬉しいよ。」
とは言ってくれたけど、それほど深く考えずにとりあえず親戚なんだからと思って行ったので、ちょっと罪悪感があった。

それにしても、四十九日にも来てくれる親友がいるのは凄い。
それだけの関係を結べるのは珍しいと思う。

ふと自分の場合はどうなんだろうと考えた。
死んだ後の話なんだし自分じゃわからないからどうでもよくて、葬式やらに絶対来てくれよとは思わないけど、来てくれるか微妙な関係がほとんどだからこそ、来てくれたらそれは嬉しいんだろうな。

まあ、死んだ後だしどうでも良いか。俺自身はわかりゃしないんだから。
・・・と布団に潜り、ぼんやり考えてたら寝ていた。

2025年6月9日月曜日

紙魚暮らし

こないだ壁に見たことない虫がいて、駆除しようと手を伸ばしたらサッと逃げてしまい、結局その後、見つからなくなってしまった。
ネットで調べたら、どうやら紙魚っぽい。
部屋には本が大量にあるので困るなぁと思ってたら、最近蜘蛛も出没するようになった。
戦ってくれることを信じて蜘蛛くんを温かく見守っている。頼むぞ。信じてるぞ。

服福人々を改めて読んだ

1年前くらい前にKindleで購入して読んだけど、それほど印象に残ってなかった。その頃はまだファッションにそこまでハマっていなくて、古着屋を回ってとりあえず着れそうなのを買ってた程度だったので。
あと、主人公たちが当然のように高身長イケメンなので、「立ち位置が違いすぎるなぁ」と参考に出来ないと思っていた。

今になって見てみると、なるほどそういう手が!と参考になるテクニックが沢山載っていると感じた。

服を着るのにもやっぱりそれぞれ持ってるものが違うから自由というわけにはいかないけど、色々諦めつつも応用して、なんとか合わせる事は出来るかな、という感じ。

2025年6月5日木曜日

男の日傘

毎年、夏は直射日光を浴びるのが辛いながらも仕方ないと我慢していたけど、肌のシミがいよいよな事になったので、ちょっとだけ気にして日傘を買うことにする。

何かの動画で、男の日傘で格好良いことはないと言っていた。
別に夏場だけ格好悪かろうといいかと開き直る。
今年こそは、あの肌の痒みから逃れられるかな。

物語の中にある理不尽

物語において、理不尽は嫌われる傾向にある。特にシリアスな漫画では。

ギャグ漫画であれば、それをコメディのネタと出来るが、物語重視であればあるほど伏線を引いたうえで後に回収されるべきという風潮がある。

僕はそこまで理不尽だと言われてることに対して、そうは思わないとすることが多い。

逆に、そこには想像する余地があると思う。


例えば、好きな漫画で「孤高の人(坂本眞一)」がある。

物語の序盤で友人として切磋琢磨した人物が、後半では見た目は変わらずとも、中身はすっかり変わり果てた”嫌な奴”として現れる。主人公はまんまと彼に騙され、人間不信を悪化させることになる。

この他にも、序盤ではライバルポジションになりそうなキャラがその後全く姿を見せず、急に後半で遺体として見つかったりと、いわゆるそれまでの伏線が無い「理不尽」な話が多い。

ここが賛否両論らしく、なんの脈略も無いのは如何なものかと言われることが多い作品だ。


でも、そこで思うのは”そもそも現実ですら「理不尽」だらけだし、そこでこちらが出来るのは「原因を想像すること」だと思う。

仕事でほぼ決まっていた案件が急に顧客の方からキャンセルされてしまうことがある。理由を顧客からは聞き出せない事も多い。理由は状況から想像するしかない。

それでも、相手には何かしらの理由があるだろうと考えて納得している。


理不尽だと感じる物語が見せている視点の外で、もう一つの物語が進んでいる。

それらが重なり合った瞬間のみ目撃するから、「理不尽」に見える。

理不尽とは、決して理解できないものではなく、もう一つの物語の流れを想像する余地があると捉えられるのではと思う。

2025年6月1日日曜日

誕生日

 誕生日を迎え、また一つ年をとった。

もういい歳なので、誕生日祝いは行わない。

それよりも、あと何年、本をこのペースで、この難度のものを読めるのか、という不安がある。

服にしたって、変わった服はそろそろ着れないんじゃないかと考えてしまう。

別に今日だから考える必要があるわけではないが、節目という機会にそういった不安は噴出するものである。


中年の誕生日は、誕生会ではなく反省会になる。

相手の気持ちになって考える


深夜のコンビニにて。

店員はカウンターに商品カゴが置かれると、「いらっしゃいませ」と一言かけてから商品のバーコードをリーダーでスキャンし、金額を確認しながら商品をカゴから出していく。
そして、マニュアル通りに”お弁当は温めますか?”と聞こうとした時、ふと店長の言葉を思い出した。

「―――お客様の気持ちになって対応してください。」


店員「(・・・そうだ、ホスピタリティだ!
相手の気持ちになって考える事で、お客様は良い気分でお店を利用することが出来る。
だからこそ、ここで”お弁当は温めますか?”とわざわざ聞くのは失礼なんじゃないか・・・?
見た所、深夜まで仕事をして帰りがけに立ち寄ったのだろうか。表情もなんだか暗いし、目も少し充血していて伏し目がちに感じる。
これは相当疲れてるはずだ。家に帰ってからわざわざ弁当を温めるのは面倒臭いだろうし、何より家の電子レンジはコンビニのものよりパワーが弱いだろうから待っている時間がもったいない。
そもそもレンジがあるかどうかもわからない。
それなら”温めますか”ではなく”温めますね”と言ってすぐに温めるのが良いのかな。
だけど、もし家が遠いから持ち帰ってる途中で冷めちゃうので家で温めたいと考えているなら・・・。)」



客「(・・・って事を今、店員さんは考えてくれてるんだろうか。
こんな遅くに対応してくれてるのに、そこまで考えてもらってると思うと申し訳ないな。
それなら、自分から”お弁当は温めてください”と言うべきなのか。
だけど、わざわざ温めてもらうのは手間なんじゃないか?
このままレンジの無い仕事場にいくならまだしも、家にレンジがあるならわざわざ手間をかけて温めてもらうのは何だか悪い気がする。
でも、家のレンジはコンビニに比べて時間がかかるんだよな・・・。
いや、温められないわけじゃないから別にその程度は待てばいいわけだし、ここは”そのままで良いです”と言うべきだろうか・・・。)」




店員「(・・・なんて事をもしかしたら考えさせてしまっているのかもしれない。
遅くまで残業して疲れているんだろうから、こんな事で考えさせてしまうのは”相手の気持ちに立って考えられてない”んじゃないのか。
なら、自分から”温めますね”と言うべきじゃないか・・・?
でも、もしお客様がそういう気持ちじゃなかったら”相手の気持になってない”ことになるから、それじゃホスピタリティは果たせない。
ああ、どうすればいいんだろう・・・。)」




客「(・・・・という風に思わせてしまっているかもしれない。
どうしよう、このままでは余計に店員さんに考えさせて無駄な労力を使わせることになるんじゃないか?
だったら、自分から”そのままで良いです”と言えば済む話じゃないのか・・・?
いや、そもそも店員さんがこちらの意図を組もうとしてくれているのであれば、素直にそれに乗るべきじゃないか?
他人の温情を不意にするのはあまり良いとは思えない。
それに、もし”温めますか?”と必ず聞くようにとマニュアルにあるなら、それを聞いてから答えるべきだし・・・。
相手がマニュアル通りに聞こうとしてるのにそれを遮って聞くなんて、相手の仕事のリズムを崩してしまうんじゃないか?
俺はどうすれば・・・。)」





翌日からセルフレジとセルフサービス用の電子レンジが設置された。

OMORIの凄いと思う点(「OMORI」ネタバレあり)

僕は「OMORI」というゲームが好きだ。 初めてゲームトレイラーを見たときは「ゆめにっきみたいな感じかなー。」と思ったくらいで、そこまで気にしていなかった。 ただ、steamの評価が圧倒的に好評を維持していたことと、丁度時間が出来た時だったのもありプレイすることにした。 結果、一...