海外の動画でこんなのがあった。
ファッションウィーク(世界各国でファッションブランドの新作が発表されるイベント。なんかおしゃれな人が呼ばれたり集まってきたりするので、それをファッション系記者が撮りに来る)の最中に、モデルでは無い友人に「ありえないファッション」をさせると、記者がどう反応するか実験をしたというのがあった。
友人は梱包材をマフラー代わりに巻いたり、謎のクソデカイヤリングやホームセンター?に売ってたサングラスをつけて堂々としていた。
すると次第に記者が集まりだして、注目の人物として大変な騒ぎになったという事だった。
そこからその動画では「こんな適当なファッションで記者が注目するなんて、ファッション業界は過大評価されている」というような纏め方をしていた。
今まで見たことがないような、自分の評価軸の外側の物を見ると、「なんかすげぇ!」となることはあると思う。
本とかでも新しい表現をしてるとなんか良いと思うことがあるし、随分前に音楽を作っていた時には適当にサンプラーを使ってリズムとか全く考えずに音ネタを鳴らして作った曲が音楽好きな友人に刺さったこともあった。
確かに過大評価な面もあるかもだけど、ファッションウィークみたいな特殊な場所に集まるような人たちが見たいのは、固定概念を打破する表現であって、むしろ今までは「ありえない」と思われていた物を堂々と提示されることこそが重要で良いと感じるんではないか。
というか「ありえない」は結構難しい。どうしても整然としてしまったり、ありきたりの表現をしてしまう。しかも1回だれかが行えば、もう「ありきたり」で「二番煎じ」になってしまう難しさ。
その難しさの先にある新しい表現に気がつく事が、そもそも相当大変であり、奇跡的な事であり、重要だと思う。
しかしこれは、既存のものを使わない、という事とは違う。
某ブランドでは、お菓子の袋まんまのレザーバッグを作ったり、IKEAの袋のバッグをこれまたレザーで作ったり、服を裏返して縫い目が見える側を表側としたり(インサイドアウトとか言うらしい)、身の回りで何となく消費したり、表に出ずに見逃しているものを改めてファッションとして取り上げ、評価の台に上げる。
既存のものだからこそ気が付かない「デザインの面白さ」に気付けるというのも「新しい表現」に繋がるのだろう。
要は、このファッションウィークという特殊な空間での「ありえないファッション」は、「大勢が着ているような纏まっていてつまらないファッション」であって、「見たことがない、意味がよくわからないファッション」はむしろ評価・歓迎されるものだと思う。
じゃあ、おしゃれな人ごとのファッションの根底に流れるテーマとか、そういったものは無意味なのか、という話。
「このファッションのテーマは・・・」と、ストリートファッションスナップなんかでインタビューされていると答える人は多い。
そういうものが無いと芸術性が感じられないのではないか。
でも、そもそもテーマなんて、多分何かモノを使えば何かしら勝手に出来上がると思う。
前に、作品を作っている時は何を書きたいのか、簡単に表現できないし自分自身も分からないという作家の話を見たことがある。
「ありえないファッション」で作られた、訳の分からなさ、つまり理不尽さは見る側に想像させる余地を与えるので、後から熱心な観客により勝手にストーリー、テーマが組み上がっていく。
実際、ファッション以外の文学や芸術作品において、ランダムな文章や図柄を組んだとしても、読み取る側が熱心であればバックグラウンドのテーマは勝手に組み上がるだろう。
このように作者本人が意識しているか無意識かに関わらずテーマは作られ、そしてそういう形でテーマが出来上がるというのは正しいように思う。
つまり、このファッション作品のテーマは、「ありえないファッション」として「適当に」組み上げた中に、実は確かに宿っている。
その意味で、「ありえないファッション」を提示出来たスタイリストが、意識的か無意識的かわからないけど結果的に「ありえなく」することが上手くできちゃったんじゃないかとも言える・・・かも。
ちなみに画像はgrokで「ありえない尖ったファッション」を依頼した結果。
まだやれるだろ!もっと尖れよ!
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