日々の雑記
2026年3月31日火曜日
ゲームと「私たちはどう学んでいるのか」
2026年3月18日水曜日
キラキラした丁寧な生活からコミュニティの成立に必要なもの
ある本を読んでて、労働は人から暇を奪って社会参加や地域社会への参加の機会を逸するから無くすべきであるという主張があった。
難しいところだけど、そもそも生活できるけど仕事がない状態だと何かを学ぶ目的が無くなるからわざわざ面倒な地域社会への参加なんかしないし、選挙の事も他人事になるから学ばないし(暇つぶしになんとなく関連する動画を観るというレベルを含めて)、ある意味学業も社会から強制されているという点では労働と同一の立場だけど、やらなくていいなら勉強なんかしないと思う。
僕も仕事が関係してなければ今の資格も取ってないし、勉強もしてない。多分。
そうなると強制されて勉強や労働をする人より大抵は視野は広がりづらく、結局は何処かのタイミングで強制的に労働が必要なように人々が自らしていくと思う。
もちろんその本の著者はその問題に自覚的で、欄外にそのへんの考慮すべき箇所が補足として書かれていた。
ただし、そういった思想面の話も良いのだが、そもそも実際的なハード面の方で無理が出てくる。
現代社会の成立する条件が道路や電線、水道などのインフラが安定維持出来るという前提で成り立っている為、労働によって資材を賄うか、外貨を手に入れて輸入しなければならない。それらを産出するための労働が不可欠である。
これを趣味でやる人がやればいいというのは安定的な確保が難しい。国内の基礎を守る労働力が安定しないとなればインフラが不安定になり、国内の産業は滞り、技術しいては国力が衰えていく。
結局のところ、労働は必ず発生し、その労働力の生活を守る労働が必要となり、またその労働力の生活を守る労働が...。
そんな感じでファンベースにより国内の産業を安定的に維持することは不可能に近い為、実際のところ労働を消すことは不可能であるのが前提となるはずである。強制的な労働なしに現代的な国家は成立し得ないと思う。
それはそれとして一旦、話を思想面の方に戻す。
労働を自発性に任せるという事について考えるうち、人が暇から逃れる術として作られた労働が、労働外の生活自体にも溶け込んでいるのではないかと感じる。
丁寧な暮らしに代表されるような、生活を周りから見てキラキラしたモノに演出することは、ある意味で自分に対して労働と同様の作用をもたらす。
つまり”整った暮らし”という枠を作り、そこからはみ出さないように生活を抑制、拡張するというのは、生活にあえて制限をかけてノルマをわかりやすくし作業化する事、つまりは「労働」に変質させる行為である。このように生活を「労働」に変換することで人生の仮目的を仕立てて、暇や退屈から逃れているのだ。
まとめると、人間は自由である事に耐え難い。自由とは結果が問われず、成果を体感しがたい。結局は自由でよいはずの「生活」も「労働」化しないと退屈になり、楽しさを感じられないんじゃないかと思う。
更に、こういった強制的に労働にするという行為が共感を作り上げ、新たなコミュニティを形成するのではないかとも思う。
ゲームにおいても、課金してアバターに手間をかけて装飾したりすることを良いものとする文化がある。(人が手間暇かけた物に課金することは肯定的に捉えるべきだし、僕もアバターを買って使ったりするのですが、一旦その考えを置いておいて...)
VRchatというゲームでも、無課金で設定までツールを使わず即座に使えるアバターの集会はそう無いが、他者が作り、導入に多少の手間がかかるアバターの場合、そのアバターごとの集会というイベントが組まれるケースがある。
この「UnityやBlenderと格闘するという手間」を自ら作り出した労働と考えるならば、その労働が介在することで人々が共感し、それぞれが繋がる心境の変化を起こすのではないか。
もちろんこれ以外にも関わる要素はある。個人の嗜好性の表現による共通意識(同じ趣味を持ってる人だから話しやすそうみたいな)とか、ある程度ゲームに対して投資(時間及び金銭)をしている事で「下手なことはしないだろう」という信頼感の演出など。
その一要素として、コミュニティの成立に一見すると余分にも思える手間が必要なのかも、と思う。
そんなわけで紙の本を読み、コーヒーを啜るというキラキラ生活を無意識に目指しているのかもと思いつつ、スマホで電子漫画の「ヤニねこ」を読んでいる。こないだアニメ化発表されたけど1クール完走出来るんだろうかというド下ネタが叩きつけられる漫画で相当面白い。
2026年3月13日金曜日
インフルエンサーブランドとの線引ってなんだろうという事のメモ
xを見てたら、某youtuberが始めたブランドについて自分のはインフルエンサーブランドではない旨の配信をした所、炎上したという話題があった。
本人としてはその認識ではなく、品質やデザインにこだわりがあるので、という旨の説明をしていて、これがより炎上してしまっているようだった。
インフルエンサーブランドというと、字面をそのまま捉えれば配信を通じて人気になった人が知名度を利用して始めたブランドを指している。ある種のファンアイテムであるという揶揄があり、マイナスなイメージがある気がする。
いわゆるファッションインフルエンサーの配信を見ていると、特定のファッションアイテム、ファッションについて評価を下す発言をし、視聴者と価値観を共有(もしくは厳選)することで知名度、登録者数を稼いでいることが結構ある。
その知名度を元にアイテムを売り込むという事になるが、これが批判の対象となっているようだ。要するに炎上しているのは「発言の意識の高さに対してアイテムのクオリティが追いついていないのでは」という事のようだった。
※今回に関しては、過去に他のインフルエンサーブランドについて「ただのファンアイテムだろう」と発言をしていたのも燃料になっているようだった。
この問題はあらゆるインフルエンサーが始めたブランドについて回る問題なんだろうなと。批判している方々の納得のいかなさというのは「服自体の良さでは無く、その人物の発言などの人気で売れてるのではないか」という疑念があり、それを認めずに服自体で勝負していて、それが評価されているという認識はどうなんだ、みたいな考えが根底にあるように思う。多分。
この辺はインフルエンサーのバックグラウンドもあるのかなとも思う。元々デザイナーをしていて、そこからYoutubeを始めた人は批判対象になっていないし、インフルエンサーブランドとも呼ばれていない。
その人のファッションに関する物語が見えないから批判されているのかとも思ったけど、ちょっと違う気がする。服の事を色々話しているうちに自分でもやりたくなった、というのはよくあるルートだし自然な感覚ではあると思うが、大抵はその流れで成立したと思われるインフルエンサーブランドも批判されている。
ファッションアイコンになった人がブランドを始めると、そこまで批判は見当たらない。日本でもファッションの有名販売員だった人が古着をサンプリングして作成したアイテムを販売するブランドがあるし、海外だと音楽アーティストがブランドとコラボしたりクリエイティブディレクターになったりする事例があるみたいだし。
多分、ファッションアイテムのこだわりとかではない部分に違いがあるように感じる。その人の発言から出来上がる理想的なファッションが高ければ高いほど、批判にさらされやすくなる。
実際、ファッションブランドをやっている人の本でその人のエピソードを見てると苦労をしてる話はかなり出てくる。それでも続けていった結果としてようやく一部の人がファッション好きに名前が知られるようになるというバックボーンがあるので、それを自分のファッションデザインやブランドの物語以外の人気でもってアイテムを売るというのが反感を買っているのかなと。
今回のケースだと、ある種のその人自身がファッションブランド運営に関して苦労してるのかとかそういう物語に対する納得性が求められている事と、それまでファンを集めてきた発言がどういった質のものなのかという事が問われている気がする。
それが視聴者から見て十分でない場合は「インフルエンサーブランド」として一括りにされてしまうのかなとも思う。
この辺はあまり詳しくないのでとりあえずメモとして。
2026年3月8日日曜日
「物を溜め込む」ことと「ケアと記憶」についての考察
物を得る事(拾う・買う・貰う)で”自分の
物になる”ことは、同時にその瞬間の感情と記憶をその物に付加することになる。
その物をトリガーとして感情と記憶を思い出す為、”自分の物とする”とは”自身の外部化”であるとも言える。
自身以外の所有物ではどうか。例えば近所の家の花壇。街中にある面白いオブジェ。本屋にずっと置いてある書籍。お気に入りの飲食店の家具等...。
それらは準”所有物”とも考えられるが、所有と違うのは基本的にその物を他者がコントロール及び責任を保有している点である。これは物のケアの責任を持つという事になる。
ケアは単なる負担だと感じるが、物を味わう(自らの身体の一部と化す)事が出来る方法とも受け取れる。ここは國分功一郎さんの「浪費」の概念を借りている。その物をケアすることでケアする前と違う物になるよう多少なりコントロールする事でもあり、その瞬間から"自身の所有物"になっていくプロセスの一部となる。
その部分をわずかでも意識する限り、非所有者からは安定的なトリガーと成り得ない。カフェとかの調度品が”落ち着く”という感情のトリガーになり、常連となれば都度眺めることは可能だが、劣化も含めて違うものになっていく可能性はある。(家具を新調したりする可能性もある。)
人間は”自身の物”に対する差異に過敏であると思う。他者がその物との間に入る場合には感情想起や付加される記憶の減少はあると思う。
なので、部屋にゴミを溜める事は、ゴミになる前にそれを消費した結果生じた記憶や感情を置いておく事と同義である。食べたら美味しかったとか、美味しくなかったとか、熱かったとか、流行り物を食べたとか、そういった情報を物に付加する。
拾ってきた場合も同一で、そのゴミ(物)を拾った時の高揚感であったり、記憶(その物に関係のない事、例えば丁度その時気分が良かったとか)を思い起こさせる。
積読もその一部で、書籍の見た目とかタイトルとかから、感情の変化があったり、内容を想像したりする事が出来るので、内容を読まずとも意味を持つ。
では物自体が見えない部分にある場合はトリガーと成り得ないのか。その時は「可能性」として存在し続ける。別の物と関連してその対象が思い出されるのであれば、その物(ゴミであれ本であれ)は所有していると認識する。もし誰かに知らないうちに捨てられて無くなっていても本人が認識していなければ、その物という情報は他の物やそれを得た時の感覚、記憶などの関連で”存在”し続ける。
つまり、物が感情や記憶のトリガーなるのと同時に、物は情報となり、他の情報(感情や記憶)のネットワークを作るのだ。(ただ、トリガーとしての機能は弱くなる為、それ自体が想起させる頻度や強度は低くなる。)
ゴミ屋敷の住人が使用していない過剰な物を捨てるのを拒むのは以上が理由ではないかとも考える。
以上より
・物には「受け取った・消費した段階の情報」を付加されてトリガーとなり、その時点で情報に変化して他の情報(物であった物も含める)との相互ネットワークを作り上げる。
・物はケアすることで相互ネットワークの中で強く自身の記憶や感情と結びつく。
・物は無くなったと認識されると、その物自体はトリガーとなりえないが、即座に情報が消えるわけではなく情報の相互ネットワーク上で残る可能性がある。とはいえ触覚や視覚を伴わない為、トリガーとしての機能は弱くなる。
でも、逆に物を置きすぎると情報の波に飲まれるのではという懸念がある。
SNS中毒だと記憶力が下がるとか弊害が叫ばれているが、物がそこにある限り情報は飛び込んでくる。(その性質と量は段違いかもしれないけど)
逆に、物を集め過ぎるというのはSNS(情報取得)中毒と同列で扱う事も可能ではないか。
前に考えた「浪費」の観点だと行き過ぎた所有は満足を生じるが、物が情報化した場合は満足しない。
じゃあミニマリストが良いかと言うと難しい。SNS等で情報を容易に受け取れる現代では、物のみのミニマル化をしても情報は減らない。むしろ、「私はミニマリストです」と情報発信してSNSに触れている状況が情報の波に飲まれている=物が周囲に溢れているのと同一とも考えられるので。
ではミニマリストを徹底するには情報を遮断しなければならないのでは無いか。情報のミニマル化。入力を極端に減らす。でもそれは難しい。大抵の人は暇と退屈に耐えられない。日々に何らかの変化をもたらさない限り、精神的に追い詰められてしまうのでは。
人間が危険予知の為に情報を集め、グループを作り生活するという性質を持っている個体が生き残っている現状から考えると、その「置いていかれている感」に対して本能的な警告がでていてもおかしくない。
そんな風に人を不安にさせる「置いていかれている感」とは、人は情報の波に飲まれつつも、少しずつその情報により思考を変化させている感覚ではないか。同じ物を見ても時間ごとに僅かな違いを感知するようになっていく。退屈だと思いつつも、その僅かな違いは精神の救いとなっているのではないかと思う。
以上より、ミニマリストになる事でこの情報の波を軽減出来るのではという可能性は難しいと考える根拠である。
とはいえ目的があればまた別なのかもしれない。ある物を買いたいとか、将来の安心を得たいからお金を溜めるとかそういう感じの。
あと、現代におけるミニマリストの対義語はマキシマリストではなく”一般的な我々”という考え方もあると思う。マキシマリストはミニマリストに対して全く流行らないので、皆はどこかで違和感を感じてるんじゃないかと。というのも、「浪費」が難しい世の中なので、自然状態であると物はどんどん増えていくから。
・マキシマリストは好きなものを意識的に集めるが、情報は好きなものに特化する。ミニマリストは好きなものを意識的に減らすが情報は特化せず収集・拡散する。
・”一般的な我々”は自然に物が増える。ミニマリストは意識的に物を減らす。共に情報は特化せず収集・拡散する。
以上のような事を近内悠太さんの著書を読んでて思ったりする日々。だいぶ論理的に怪しいけど、とりあえず今はこんな感じです。
2026年1月16日金曜日
お疲れ祭りから自分へのご褒美
2026年1月13日火曜日
マストバイ・お得な買い物についての覚書
最近、國分功一郎氏の「目的への抵抗」を読んで、ふと考えたことの覚書を書いておく。
人は「浪費」ではなく「消費」をしてしまう。
・消費は「流行りの物を買った」という情報を周囲へと広めるために購入する為、物を受け取ったという意識が薄く、満足をしない。その結果として際限無く物を購入したり経験に出費してしまう。
・浪費は「物を余分に買った」「身に合わない体験に出費した」と、合理性を欠いた贅沢をしたという意識を受けるため、気分を満たすことが出来、物自体を使い果たそうとする意識がある。
ちょっと間違ってるかもだけど、以上を踏まえて「マストバイ」について考えてみる。
「これは値段以上の出来だからマストバイ」「これはトレンドを押さえているからマストバイ」
ファッションにおいてよく使われる言葉だが、例えば「5,000円で(ある人が言うには)2万円の価値(があるはず)の物を手に入れた」という情報にお金を出してしていることになる。
この買い方は「流行りの物を買った」「値段以上の物を買った」という情報を元に手に入れているわけだけど、「実際に着用して値段以上の出来であることを実感した」という事になる可能性は低いのではないか。
そもそも個々人の感覚(この場合は満足感)の強弱は非常にわかりづらく、正確に意識できることは稀、というか不可能ではないか。そうなると実感を得ないままで不安な心境に陥り、そのギャップを埋めるために他の購入者の情報を集め始める。
いわば満足感を外部から取り入れるのだ。
「この服を買えて嬉しかった。」「確かに値段以上だと思う。」「トレンドに合致していてかっこいい」
購入”後”にその商品のポジティブな情報を集めがちになるという心理状態はマーケティングを学ぶと”心理的不協和”として出てくる。それらの評判を見て、自分が買ったのは正しいんだと後追いで思い込むようになる。
しかし実際のところ、その満足度を支えるのはその評判だけであり、その服を買っても何かがはっきりと変わるという事は稀である。
わかりやすい指標があればまだ違った話になる。例えば耐久度などは実際に体感し、数値化出来る可能性もある。ただ、数値化出来ず、人間の心理に依っているものである場合はその根拠は非常に不安定だ。
その結果、「その物が値段以上である」という情報に対して実際の効用とのギャップが生まれる。この程度では十分な満足は出来ないと感じることになる。言わば「お得な体験をした」という情報を購入したが、実感が湧かないので欲求不満になる。
これだと実質的にその物自体の価値を目的に買ったわけではないので、その物自体の価値を味わうことなく「お得」という情報だけを取り込み、消費してしまう。SNSなんかで周囲に「これを買った!」みたいな事を書き込んでアピールするなどもその消費活動の一部だ。
以上の実感を得ない消費活動では物が手元にあったとしても、一時的な情報の消費で終わってしまうので気持ちは満たされず、また外部に価値判断を委ねているがゆえに自分自身の価値基準が変わらず、次の「マストバイ」「お得な商品」へと向かう。これでは終わりがない。
じゃあ、ファッションにおいて浪費は可能なんだろうか。
これはかなり難しそうな気がする。ファッションブランドの来歴やどう作られているかを知っていると「こういう歴史、手間がかかったものを持っているんだ」という情報を消費している事になるし、自分の予算以上の物を買っても「いいと思ったから高いけど買っちゃった自分かっこいい」みたいに情報を消費することになるのでは。
でも、高い物を買うと例えばシャツとかでもスレて穴が空いた所をお直ししながら使い続けたりするし、そういう場合は物自体に愛着があって、情報を消費しつつも「もったいないから使い果たしたい」という浪費の側面もでてくるんだろうか・・・。
言わば「この服は自分の体の一部である」という認識に至れば、「浪費」することが可能ではないか。
その為には愛着を持つことであるが、愛着へのルートは「実際に対価を払っている事」「劣化したら直している」事も重要だと思う。
風邪を引いたら薬を飲んだり養生して治すように、肌荒れしたらスキンケアをしたり食生活を見直したりするように、その服自体に対してケアをする思考を巡らせることは一つの道だろう。やはりそのものの利用価値についてより多く考えることは愛着に繋がる。
愛着は対象への認識をを消耗品ではなく耐久財へと変える可能性があり、服がすり減っていく過程を楽しむ事が出来れば、劣化を「味」と捉えられるようになる。
この認識に達するには対価を払っている事も大切になると思う。それは自ら検討した上で採算を考えずにお直しする事(お直しすると大抵元通りにはならず、買ったほうが結果的に安いことが多いので)から生じうる代替不可能性がその物に付与されることで達成されるのではないか。その点で闇雲に「お得」という情報を消費することとは異なっている。
特に「得」であるというワードは価値判断を鈍らせる一因である。それは換金可能性の意識や周囲へのアピールの要素が多分に含まれているからだ。否が応でも物自体ではなく価格に意識が向かってしまう。同じく流行りの「高見え」という言葉もその一つであろう。
以上より、高くて品質は良いが耐久性は低価格帯のものと同じである服は買うべきか。
これは何をその人が重視するかによるし、その人の金銭感覚による。
ただ、消費せず浪費するという観点では、直して使い続ける前提を持つことが、浪費する事に近づける可能性は高くなるのではないか。
ただ、お直しして使うというのも「丁寧なくらし」的な記号として消費されるのでは?という疑いもある。
もっと純粋な「価格」「有用性」「イメージアップ」などの記号を超えたところにあるファッション体験でなければ浪費にたどり着かないだろうと思う。
今のところこのくらいしか思いつかないので、正しいか有用かは別として、また思いついたら修正したりしつつ続けてみようかな・・・と思う。
2025年12月1日月曜日
仕事着を普段着にする。
最近、仕事で穿いているディッキーズのパンツを普段着でも使うようになった。色落ちの感じがリアルで服装に馴染む感がある。
ファッションの成り立ちを探っていると、普段仕事で着用していた服をそのまま転用して着ているという例が結構多く見られる。
自分を違う人にしてしまう服装もいいけど、自分自身の現状から延長線上にあるファッションも楽しい。
ゲームと「私たちはどう学んでいるのか」
最近読んだ本を踏まえてメモ。 今回は試しにスマホからポータブルキーボードで書いてみる。 これが出来るようになれば外出中にも日記が更新できるので忘れることが無くなりそうで便利。 何気にアウトプットが気軽に出来ると精神衛生上良い。 なにかを始めると最初は一気に...
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僕は特段オシャレではなく、ファッションに興味があって雑誌を読んだりネットの情報を調べたりしながら、試行錯誤をしている程度なのだけれど、ここ何年かくらいでよく見かけるようになった「~はトレンド」「~はダサい」という趣旨の動画や記事。 これらを見ていると、徐々に...
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最近、國分功一郎氏の「目的への抵抗」を読んで、ふと考えたことの覚書を書いておく。 人は「浪費」ではなく「消費」をしてしまう。 ・消費は「流行りの物を買った」という情報を周囲へと広めるために購入する為、物を受け取ったという意識が薄く、満足をしない。その結果として際限無く物を購入し...
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海外の動画でこんなのがあった。 ファッションウィーク(世界各国でファッションブランドの新作が発表されるイベント。なんかおしゃれな人が呼ばれたり集まってきたりするので、それをファッション系記者が撮りに来る)の最中に、モデルでは無い友人に「ありえないファッション」をさせると、記者...
