◆インフルエンサー:初めは初心者向けに既存の安価なファッションアイテムコーデを定義。後半で文脈を変えて自身のファッションブランド優位な理論へ変更誘導する形と捉えかねない発信となる。そこで今までの講座も何も自身のファッションブランド販売の為のツールであったと認識されて批判が増える。
横に寝っ転がってせんべいかじってたのに話の急展開で思わず座り直して凝視した結果がこれだよ!
趣味で何かが好きな人って、どういうメンタリティで続けてるのか気になる今日このごろ。
もちろん何となく楽しいっていうのもあるかもだけど、楽しいと言うよりは義務のようにしないと続かない場面も多いと思う。
イラスト書いてると、ラフから下書きまでは楽しいけど、ペン入れと彩色、効果を入れる段階になると
「うう・・ちゅらい・・・ちゅらい・・・」
ってなる事が多い。僕は特に。
要するにどういう所を最終到達点にしてるのかなと考えてたりしてて、どう納得するかどうかだと思う。それは利便性だったり、歴史へのリスペクトだったり・・・。
例えばどういう服を着るかって事を考えてると、自分の生活にフィットしたファッションが一つの到達点になると思ってて、その意味で休日の公園にいるパパさんが上下スウェットなのはワークファッションの到達点の一つとも言えるのではないか。
(その意味で、金子恵治さんが出してたフルーツオブザルームのスウェットセットアップはワンマイルウェア、休日のリラックススタイルとしての一つの完成形だ!と思って買おうとしたら速攻売り切れた。やっぱ影響力あるなぁと改めて思いつつ、レギュラーの方を買うか検討中。もう夏になるけど。)
そんなわけで、軍服も含めた作業着は特定の目的を果たすために機能性を最大限考慮して作られていると考えると、その人それぞれの生活に密着した服装が存在するなら値段とか関係なく「あがり」の服だと思う。
「あがり」にも色々な軸がありそうで、日時がわかってソーラー充電も可能な時計で十分なら実用的な面から「あがり」になるし、フィットネスをするから心拍数やVO2max、走行距離がわかるものが必要と思えばスマートウォッチが「あがり」になる。
見た目でも、カルティエのタンクみたいにブランドの歴史を感じられて、一時代を作った製品に対して深い思いがあるならそれも一つ「あがり」になりうるし、デザインが似ててクォーツの方が使いやすいならそれも「あがり」になる。「うんうん、それもまたアイカツだね!」みたいな感じだけど。
要するに人によりけりだから難しいけど、背景のストーリーは言語化出来ていない部分も含めて誰しも興味深いものがあるんだと思う。
イラストでも、僕は基本的に描く動機が「こんな絵が見たい」なので、ある程度想像で保管できる部分まで描けたら下書きでも完成品としちゃう事が結構ある。
そう思ったのも、それこそ金子恵治さんがなんかの投稿でハンティングジャケットの後ろのゲームポケットを「手ぶらで出かけた時、ふと衝動買いをした際のバッグ代わりに使える便利さ」みたいな事を言ってて、「ゲームポケットって実用的に使えるんだ・・・」というところからだった。
古着で昔は獲物を入れてたポケットを、ただの飾りじゃなく現代的な用途で使用することで服本来の性能を発揮しているのは時代を超えたロマンがあるなぁと思う。
最後に、結局は自分なりの『あがり』を見つけることが、辛い作業を乗り越えたり、自分なりの楽しみ方を肯定したりするコツなのかもしれない。
難しいところだけど、そもそも生活できるけど仕事がない状態だと何かを学ぶ目的が無くなるからわざわざ面倒な地域社会への参加なんかしないし、選挙の事も他人事になるから学ばないし(暇つぶしになんとなく関連する動画を観るというレベルを含めて)、ある意味学業も社会から強制されているという点では労働と同一の立場だけど、やらなくていいなら勉強なんかしないと思う。
僕も仕事が関係してなければ今の資格も取ってないし、勉強もしてない。多分。
そうなると強制されて勉強や労働をする人より大抵は視野は広がりづらく、結局は何処かのタイミングで強制的に労働が必要なように人々が自らしていくと思う。
もちろんその本の著者はその問題に自覚的で、欄外にそのへんの考慮すべき箇所が補足として書かれていた。
ただし、そういった思想面の話も良いのだが、そもそも実際的なハード面の方で無理が出てくる。
現代社会の成立する条件が道路や電線、水道などのインフラが安定維持出来るという前提で成り立っている為、労働によって資材を賄うか、外貨を手に入れて輸入しなければならない。それらを産出するための労働が不可欠である。
これを趣味でやる人がやればいいというのは安定的な確保が難しい。国内の基礎を守る労働力が安定しないとなればインフラが不安定になり、国内の産業は滞り、技術しいては国力が衰えていく。
結局のところ、労働は必ず発生し、その労働力の生活を守る労働が必要となり、またその労働力の生活を守る労働が...。
そんな感じでファンベースにより国内の産業を安定的に維持することは不可能に近い為、実際のところ労働を消すことは不可能であるのが前提となるはずである。強制的な労働なしに現代的な国家は成立し得ないと思う。
それはそれとして一旦、話を思想面の方に戻す。
労働を自発性に任せるという事について考えるうち、人が暇から逃れる術として作られた労働が、労働外の生活自体にも溶け込んでいるのではないかと感じる。
丁寧な暮らしに代表されるような、生活を周りから見てキラキラしたモノに演出することは、ある意味で自分に対して労働と同様の作用をもたらす。
つまり”整った暮らし”という枠を作り、そこからはみ出さないように生活を抑制、拡張するというのは、生活にあえて制限をかけてノルマをわかりやすくし作業化する事、つまりは「労働」に変質させる行為である。このように生活を「労働」に変換することで人生の仮目的を仕立てて、暇や退屈から逃れているのだ。
まとめると、人間は自由である事に耐え難い。自由とは結果が問われず、成果を体感しがたい。結局は自由でよいはずの「生活」も「労働」化しないと退屈になり、楽しさを感じられないんじゃないかと思う。
更に、こういった強制的に労働にするという行為が共感を作り上げ、新たなコミュニティを形成するのではないかとも思う。
ゲームにおいても、課金してアバターに手間をかけて装飾したりすることを良いものとする文化がある。(人が手間暇かけた物に課金することは肯定的に捉えるべきだし、僕もアバターを買って使ったりするのですが、一旦その考えを置いておいて...)
VRchatというゲームでも、無課金で設定までツールを使わず即座に使えるアバターの集会はそう無いが、他者が作り、導入に多少の手間がかかるアバターの場合、そのアバターごとの集会というイベントが組まれるケースがある。
この「UnityやBlenderと格闘するという手間」を自ら作り出した労働と考えるならば、その労働が介在することで人々が共感し、それぞれが繋がる心境の変化を起こすのではないか。
もちろんこれ以外にも関わる要素はある。個人の嗜好性の表現による共通意識(同じ趣味を持ってる人だから話しやすそうみたいな)とか、ある程度ゲームに対して投資(時間及び金銭)をしている事で「下手なことはしないだろう」という信頼感の演出など。
その一要素として、コミュニティの成立に一見すると余分にも思える手間が必要なのかも、と思う。
そんなわけで紙の本を読み、コーヒーを啜るというキラキラ生活を無意識に目指しているのかもと思いつつ、スマホで電子漫画の「ヤニねこ」を読んでいる。こないだアニメ化発表されたけど1クール完走出来るんだろうかというド下ネタが叩きつけられる漫画で相当面白い。
xを見てたら、某youtuberが始めたブランドについて自分のはインフルエンサーブランドではない旨の配信をした所、炎上したという話題があった。
本人としてはその認識ではなく、品質やデザインにこだわりがあるので、という旨の説明をしていて、これがより炎上してしまっているようだった。
インフルエンサーブランドというと、字面をそのまま捉えれば配信を通じて人気になった人が知名度を利用して始めたブランドを指している。ある種のファンアイテムであるという揶揄があり、マイナスなイメージがある気がする。
いわゆるファッションインフルエンサーの配信を見ていると、特定のファッションアイテム、ファッションについて評価を下す発言をし、視聴者と価値観を共有(もしくは厳選)することで知名度、登録者数を稼いでいることが結構ある。
その知名度を元にアイテムを売り込むという事になるが、これが批判の対象となっているようだ。要するに炎上しているのは「発言の意識の高さに対してアイテムのクオリティが追いついていないのでは」という事のようだった。
※今回に関しては、過去に他のインフルエンサーブランドについて「ただのファンアイテムだろう」と発言をしていたのも燃料になっているようだった。
この問題はあらゆるインフルエンサーが始めたブランドについて回る問題なんだろうなと。批判している方々の納得のいかなさというのは「服自体の良さでは無く、その人物の発言などの人気で売れてるのではないか」という疑念があり、それを認めずに服自体で勝負していて、それが評価されているという認識はどうなんだ、みたいな考えが根底にあるように思う。多分。
この辺はインフルエンサーのバックグラウンドもあるのかなとも思う。元々デザイナーをしていて、そこからYoutubeを始めた人は批判対象になっていないし、インフルエンサーブランドとも呼ばれていない。
その人のファッションに関する物語が見えないから批判されているのかとも思ったけど、ちょっと違う気がする。服の事を色々話しているうちに自分でもやりたくなった、というのはよくあるルートだし自然な感覚ではあると思うが、大抵はその流れで成立したと思われるインフルエンサーブランドも批判されている。
ファッションアイコンになった人がブランドを始めると、そこまで批判は見当たらない。日本でもファッションの有名販売員だった人が古着をサンプリングして作成したアイテムを販売するブランドがあるし、海外だと音楽アーティストがブランドとコラボしたりクリエイティブディレクターになったりする事例があるみたいだし。
多分、ファッションアイテムのこだわりとかではない部分に違いがあるように感じる。その人の発言から出来上がる理想的なファッションが高ければ高いほど、批判にさらされやすくなる。
実際、ファッションブランドをやっている人の本でその人のエピソードを見てると苦労をしてる話はかなり出てくる。それでも続けていった結果としてようやく一部の人がファッション好きに名前が知られるようになるというバックボーンがあるので、それを自分のファッションデザインやブランドの物語以外の人気でもってアイテムを売るというのが反感を買っているのかなと。
今回のケースだと、ある種のその人自身がファッションブランド運営に関して苦労してるのかとかそういう物語に対する納得性が求められている事と、それまでファンを集めてきた発言がどういった質のものなのかという事が問われている気がする。
それが視聴者から見て十分でない場合は「インフルエンサーブランド」として一括りにされてしまうのかなとも思う。
この辺はあまり詳しくないのでとりあえずメモとして。
物を得る事(拾う・買う・貰う)で”自分の
物になる”ことは、同時にその瞬間の感情と記憶をその物に付加することになる。
その物をトリガーとして感情と記憶を思い出す為、”自分の物とする”とは”自身の外部化”であるとも言える。
自身以外の所有物ではどうか。例えば近所の家の花壇。街中にある面白いオブジェ。本屋にずっと置いてある書籍。お気に入りの飲食店の家具等...。
それらは準”所有物”とも考えられるが、所有と違うのは基本的にその物を他者がコントロール及び責任を保有している点である。これは物のケアの責任を持つという事になる。
ケアは単なる負担だと感じるが、物を味わう(自らの身体の一部と化す)事が出来る方法とも受け取れる。ここは國分功一郎さんの「浪費」の概念を借りている。その物をケアすることでケアする前と違う物になるよう多少なりコントロールする事でもあり、その瞬間から"自身の所有物"になっていくプロセスの一部となる。
その部分をわずかでも意識する限り、非所有者からは安定的なトリガーと成り得ない。カフェとかの調度品が”落ち着く”という感情のトリガーになり、常連となれば都度眺めることは可能だが、劣化も含めて違うものになっていく可能性はある。(家具を新調したりする可能性もある。)
人間は”自身の物”に対する差異に過敏であると思う。他者がその物との間に入る場合には感情想起や付加される記憶の減少はあると思う。
なので、部屋にゴミを溜める事は、ゴミになる前にそれを消費した結果生じた記憶や感情を置いておく事と同義である。食べたら美味しかったとか、美味しくなかったとか、熱かったとか、流行り物を食べたとか、そういった情報を物に付加する。
拾ってきた場合も同一で、そのゴミ(物)を拾った時の高揚感であったり、記憶(その物に関係のない事、例えば丁度その時気分が良かったとか)を思い起こさせる。
積読もその一部で、書籍の見た目とかタイトルとかから、感情の変化があったり、内容を想像したりする事が出来るので、内容を読まずとも意味を持つ。
では物自体が見えない部分にある場合はトリガーと成り得ないのか。その時は「可能性」として存在し続ける。別の物と関連してその対象が思い出されるのであれば、その物(ゴミであれ本であれ)は所有していると認識する。もし誰かに知らないうちに捨てられて無くなっていても本人が認識していなければ、その物という情報は他の物やそれを得た時の感覚、記憶などの関連で”存在”し続ける。
つまり、物が感情や記憶のトリガーなるのと同時に、物は情報となり、他の情報(感情や記憶)のネットワークを作るのだ。(ただ、トリガーとしての機能は弱くなる為、それ自体が想起させる頻度や強度は低くなる。)
ゴミ屋敷の住人が使用していない過剰な物を捨てるのを拒むのは以上が理由ではないかとも考える。
以上より
・物には「受け取った・消費した段階の情報」を付加されてトリガーとなり、その時点で情報に変化して他の情報(物であった物も含める)との相互ネットワークを作り上げる。
・物はケアすることで相互ネットワークの中で強く自身の記憶や感情と結びつく。
・物は無くなったと認識されると、その物自体はトリガーとなりえないが、即座に情報が消えるわけではなく情報の相互ネットワーク上で残る可能性がある。とはいえ触覚や視覚を伴わない為、トリガーとしての機能は弱くなる。
でも、逆に物を置きすぎると情報の波に飲まれるのではという懸念がある。
SNS中毒だと記憶力が下がるとか弊害が叫ばれているが、物がそこにある限り情報は飛び込んでくる。(その性質と量は段違いかもしれないけど)
逆に、物を集め過ぎるというのはSNS(情報取得)中毒と同列で扱う事も可能ではないか。
前に考えた「浪費」の観点だと行き過ぎた所有は満足を生じるが、物が情報化した場合は満足しない。
じゃあミニマリストが良いかと言うと難しい。SNS等で情報を容易に受け取れる現代では、物のみのミニマル化をしても情報は減らない。むしろ、「私はミニマリストです」と情報発信してSNSに触れている状況が情報の波に飲まれている=物が周囲に溢れているのと同一とも考えられるので。
ではミニマリストを徹底するには情報を遮断しなければならないのでは無いか。情報のミニマル化。入力を極端に減らす。でもそれは難しい。大抵の人は暇と退屈に耐えられない。日々に何らかの変化をもたらさない限り、精神的に追い詰められてしまうのでは。
人間が危険予知の為に情報を集め、グループを作り生活するという性質を持っている個体が生き残っている現状から考えると、その「置いていかれている感」に対して本能的な警告がでていてもおかしくない。
そんな風に人を不安にさせる「置いていかれている感」とは、人は情報の波に飲まれつつも、少しずつその情報により思考を変化させている感覚ではないか。同じ物を見ても時間ごとに僅かな違いを感知するようになっていく。退屈だと思いつつも、その僅かな違いは精神の救いとなっているのではないかと思う。
以上より、ミニマリストになる事でこの情報の波を軽減出来るのではという可能性は難しいと考える根拠である。
とはいえ目的があればまた別なのかもしれない。ある物を買いたいとか、将来の安心を得たいからお金を溜めるとかそういう感じの。
あと、現代におけるミニマリストの対義語はマキシマリストではなく”一般的な我々”という考え方もあると思う。マキシマリストはミニマリストに対して全く流行らないので、皆はどこかで違和感を感じてるんじゃないかと。というのも、「浪費」が難しい世の中なので、自然状態であると物はどんどん増えていくから。
・マキシマリストは好きなものを意識的に集めるが、情報は好きなものに特化する。ミニマリストは好きなものを意識的に減らすが情報は特化せず収集・拡散する。
・”一般的な我々”は自然に物が増える。ミニマリストは意識的に物を減らす。共に情報は特化せず収集・拡散する。
以上のような事を近内悠太さんの著書を読んでて思ったりする日々。だいぶ論理的に怪しいけど、とりあえず今はこんな感じです。
某有名ファッションインフルエンサーさん達が叩かれてるのと、100ワニ炎上には共通点があるんじゃないかと思う。 ◆インフルエンサー:初めは初心者向けに既存の安価なファッションアイテムコーデを定義。後半で文脈を変えて自身のファッションブランド優位な理論へ変更誘導する形と捉えかねな...