日々の雑記
2026年1月16日金曜日
お疲れ祭りから自分へのご褒美
2026年1月13日火曜日
マストバイ・お得な買い物についての覚書
最近、國分功一郎氏の「目的への抵抗」を読んで、ふと考えたことの覚書を書いておく。
人は「浪費」ではなく「消費」をしてしまう。
・消費は「流行りの物を買った」という情報を周囲へと広めるために購入する為、物を受け取ったという意識が薄く、満足をしない。その結果として際限無く物を購入したり経験に出費してしまう。
・浪費は「物を余分に買った」「身に合わない体験に出費した」と、合理性を欠いた贅沢をしたという意識を受けるため、気分を満たすことが出来、物自体を使い果たそうとする意識がある。
ちょっと間違ってるかもだけど、以上を踏まえて「マストバイ」について考えてみる。
「これは値段以上の出来だからマストバイ」「これはトレンドを押さえているからマストバイ」
ファッションにおいてよく使われる言葉だが、例えば「5,000円で(ある人が言うには)2万円の価値(があるはず)の物を手に入れた」という情報にお金を出してしていることになる。
この買い方は「流行りの物を買った」「値段以上の物を買った」という情報を元に手に入れているわけだけど、「実際に着用して値段以上の出来であることを実感した」という事になる可能性は低いのではないか。
そもそも個々人の感覚(この場合は満足感)の強弱は非常にわかりづらく、正確に意識できることは稀、というか不可能ではないか。そうなると実感を得ないままで不安な心境に陥り、そのギャップを埋めるために他の購入者の情報を集め始める。
いわば満足感を外部から取り入れるのだ。
「この服を買えて嬉しかった。」「確かに値段以上だと思う。」「トレンドに合致していてかっこいい」
購入”後”にその商品のポジティブな情報を集めがちになるという心理状態はマーケティングを学ぶと”心理的不協和”として出てくる。それらの評判を見て、自分が買ったのは正しいんだと後追いで思い込むようになる。
しかし実際のところ、その満足度を支えるのはその評判だけであり、その服を買っても何かがはっきりと変わるという事は稀である。
わかりやすい指標があればまだ違った話になる。例えば耐久度などは実際に体感し、数値化出来る可能性もある。ただ、数値化出来ず、人間の心理に依っているものである場合はその根拠は非常に不安定だ。
その結果、「その物が値段以上である」という情報に対して実際の効用とのギャップが生まれる。この程度では十分な満足は出来ないと感じることになる。言わば「お得な体験をした」という情報を購入したが、実感が湧かないので欲求不満になる。
これだと実質的にその物自体の価値を目的に買ったわけではないので、その物自体の価値を味わうことなく「お得」という情報だけを取り込み、消費してしまう。SNSなんかで周囲に「これを買った!」みたいな事を書き込んでアピールするなどもその消費活動の一部だ。
以上の実感を得ない消費活動では物が手元にあったとしても、一時的な情報の消費で終わってしまうので気持ちは満たされず、また外部に価値判断を委ねているがゆえに自分自身の価値基準が変わらず、次の「マストバイ」「お得な商品」へと向かう。これでは終わりがない。
じゃあ、ファッションにおいて浪費は可能なんだろうか。
これはかなり難しそうな気がする。ファッションブランドの来歴やどう作られているかを知っていると「こういう歴史、手間がかかったものを持っているんだ」という情報を消費している事になるし、自分の予算以上の物を買っても「いいと思ったから高いけど買っちゃった自分かっこいい」みたいに情報を消費することになるのでは。
でも、高い物を買うと例えばシャツとかでもスレて穴が空いた所をお直ししながら使い続けたりするし、そういう場合は物自体に愛着があって、情報を消費しつつも「もったいないから使い果たしたい」という浪費の側面もでてくるんだろうか・・・。
言わば「この服は自分の体の一部である」という認識に至れば、「浪費」することが可能ではないか。
その為には愛着を持つことであるが、愛着へのルートは「実際に対価を払っている事」「劣化したら直している」事も重要だと思う。
風邪を引いたら薬を飲んだり養生して治すように、肌荒れしたらスキンケアをしたり食生活を見直したりするように、その服自体に対してケアをする思考を巡らせることは一つの道だろう。やはりそのものの利用価値についてより多く考えることは愛着に繋がる。
愛着は対象への認識をを消耗品ではなく耐久財へと変える可能性があり、服がすり減っていく過程を楽しむ事が出来れば、劣化を「味」と捉えられるようになる。
この認識に達するには対価を払っている事も大切になると思う。それは自ら検討した上で採算を考えずにお直しする事(お直しすると大抵元通りにはならず、買ったほうが結果的に安いことが多いので)から生じうる代替不可能性がその物に付与されることで達成されるのではないか。その点で闇雲に「お得」という情報を消費することとは異なっている。
特に「得」であるというワードは価値判断を鈍らせる一因である。それは換金可能性の意識や周囲へのアピールの要素が多分に含まれているからだ。否が応でも物自体ではなく価格に意識が向かってしまう。同じく流行りの「高見え」という言葉もその一つであろう。
以上より、高くて品質は良いが耐久性は低価格帯のものと同じである服は買うべきか。
これは何をその人が重視するかによるし、その人の金銭感覚による。
ただ、消費せず浪費するという観点では、直して使い続ける前提を持つことが、浪費する事に近づける可能性は高くなるのではないか。
ただ、お直しして使うというのも「丁寧なくらし」的な記号として消費されるのでは?という疑いもある。
もっと純粋な「価格」「有用性」「イメージアップ」などの記号を超えたところにあるファッション体験でなければ浪費にたどり着かないだろうと思う。
今のところこのくらいしか思いつかないので、正しいか有用かは別として、また思いついたら修正したりしつつ続けてみようかな・・・と思う。
2025年12月1日月曜日
仕事着を普段着にする。
最近、仕事で穿いているディッキーズのパンツを普段着でも使うようになった。色落ちの感じがリアルで服装に馴染む感がある。
ファッションの成り立ちを探っていると、普段仕事で着用していた服をそのまま転用して着ているという例が結構多く見られる。
自分を違う人にしてしまう服装もいいけど、自分自身の現状から延長線上にあるファッションも楽しい。
2025年11月21日金曜日
最近の流行り
・金子恵治さんのファッションが最近すごいツボになっている。前に電車で見かけたときのファッションが良くて、力が抜けているけど上品で、考えさせる格好だったのもあり、そういう思考を巡らせる余地のあるファッションは楽しそうだなと思う。
・GOGHを導入し、読書の時に活用している。VRCHATでも似たような事はしているけど、とりあえず使い続けてみて違いを探している感じ。
・インフルエンザが蔓延しているので、ワクチン接種を予約した。
・仕事用にダナーフィルドローを買おうか考え中。仕事行くたびに「あー、靴がエイジングされていく・・・ウッ!」ってなるのが楽しみになって出勤が苦じゃなくなるのでは。ボロボロになったダナーフィールドはクソカッコイイ。
2025年10月22日水曜日
ダイエットの弊害
ここしばらくはダイエットに勤しんでいた。
2年前くらいに体重が過去最高になり、そんな中でマイナンバーの写真を撮影したら顔がパンパンになっていた為、これはまずいと思い毎食ごとにカロリーを調べて制限するようにした。
1年後、体重が爆下がりして成功したかと思いきや、カロリーを毎回気にして少なく食べてるうちに少食になってしまい、また油物を多く食べると胃もたれする為食べられなくなり、体重が下がり続けるようになった。
また、ちょっとカロリーオーバーしようと思うと罪悪感で結局食べられず。現在は高校の頃の体重を超えて下がっている状態になった。
このダイエットは神経質になりすぎる人には向いていないのかもしれない・・・。
2025年10月20日月曜日
「オシャレ」の流行は人々を幸せにするのか
僕は特段オシャレではなく、ファッションに興味があって雑誌を読んだりネットの情報を調べたりしながら、試行錯誤をしている程度なのだけれど、ここ何年かくらいでよく見かけるようになった「~はトレンド」「~はダサい」という趣旨の動画や記事。
「オシャレ」の流行が人々を幸せにするのかについて言えば、ミクロの視点では一時的に人を幸せにする可能性はある。
個人の魅力を引き出したり、はたまた新たな自分を見つけたりできて、結果的に自信に繋がる事もある。加えて服を買ったときの嬉しさがある。なんだかんだで散財は楽しい。
こんな感じで要素を分解すれば、オシャレをする幸せの要素は色々とあるように思う。
では、マクロな視点ではどうか。
「オシャレである」という状態は「オシャレは差別化である」とよく言われることから相対的なものである。つまり、「オシャレでない」大多数がいることで存在出来る。ここまでは自然な状況であり、”区別”として「オシャレ」な少数の人と「オシャレ」でない大多数の人がいるだけである。
しかし、「オシャレでない」ことが「悪い事」「損である」とされる状況においては、大多数の人々もそのレースに参加するよう急かされる事になる。
「こんな服装してる人はセンスがない」「この服装は時代遅れでカッコ悪い」
服装が個人の印象へより大きく影響してくることになる。そうなると「大多数に対して"オシャレである"ことを要求される」状況が発生する。こうなると区別ではなく”差別”の性質を持つようになる。
これは果たして全体にとって幸福なのか。
そもそもなにが「オシャレ」なのかという事も判断が難しい。
オシャレであるかは個人の嗜好によって変化する。アメカジ、モード、きれいめ、トラッド、パンクなど色々なジャンルの視点があり、それらには個人の経験からくる好みも含まれている。
つまり、ある人にとってはダサくても、ある人にとっては素晴らしいと評価が変わる可能性がある。それゆえ「オシャレ」であるということを論理的に説明しようとしても、完全には説明できない。
インフルエンサーがこぞって「オシャレの法則」のようなものを公開し、それに沿ってコーディネートを紹介しているが、その理論を辿っても「ダサい」と言われるコーデは存在している。
また、本当に論理的に全て説明が付くのであれば時代を超えて絶対的にオシャレな服装が存在しうることになるが、現状はそんなものは無いように感じる。それはその人自身の外面内面含めた特徴が大きく影響することもあり、そう簡単には纏められないものであるし、そもそも色彩やシルエットなどの理論を超えたところにカッコよさがある、という場合もある。これを決めるのも法則ではなく主観的な意見である。
また、トレンドというものが個々のデザイナー(この場合はラグジュアリーブランドを初めとした有名ブランド?)の感性に委ねられているが故に、十分に合理的な理解ができないという点もある。
これらの点について無理に筋を通そうとすると、説明に齟齬をきたす。
例を挙げれば、以前はトレンドとして現れたスキニーパンツが、脚長効果をもたらすからと論理的にスタイルを補正するという意味合いと併せて持て囃されたが、今ではダサいファッションアイテムの筆頭となっている。そして現在はワイドパンツが足のシルエットと長さを隠すので脚長に見えるという、真逆のアイテムが同じ効果を持ち、かつそちらの方が今は優れているという説明がされていた。
体型補正という絶対的な基準をもってしてもオシャレな状態を説明しきれないのである。
要するに基本的にファッションは主観的かつ変化し続ける事が前提であり、絶対的というものは無いという事なのだろう。
でも、絶対的ではないファッションにおいて、ある服装を「ダサい」と公の場で表現するのはなぜなのだろうか。
そもそも「~はダサい」は個人の状況や嗜好を無視した上で言われる事が多い。
もちろん、ある集団が提唱する「オシャレ」になりたくてもうまくいかない人もいる。
しかし、例えば子供がいるので汚れてしまうと困るような良い服は着られない。昔から憧れだったブランドをようやく着れるようになった。着心地を優先して生活のストレスを軽減することに重点を置いている、などなど色々な理由が個人にはあると思う。
そんな中、総じてそういった「世間の評価をそれほど気にしていない人々」や「その服が好きで着ている人々」がやり玉に挙げられることになる。
それらの人々を揶揄して「この人たちはダサいです。オシャレになりたいならこういう服を着ましょう。」というのは藁人形論法のようなものであり、インフルエンサーの言う「オシャレ」をその人々は求めて居ないのに、そのファッションの一要素を切り取り、本人の意図とは違う解釈を行って「ダサい」と示しているのだ。
これらはマーケティングの手法としてであれば正しい。競争を加速させた上で世の中が自分たちの有利な方にコントロール出来るのであれば大変有効な手段である。保有しているものにより価値がつき、それを元に自分に有利なゲームを展開できるからだ。
結論として、「大多数がオシャレをすることで幸せになる」というのはミクロな視点かつ短期的には可能だが、長期的に見ると所属している環境をより厳しいものにし、その上でその人自身が厳しい環境に巻き込まれてしまう可能性がありうる。
マクロの視点でも、相対的に不幸な人たちが多く生まれる形となる。より競争が進み、ルッキズムの流れが激しくなることで今までよりも「普通であるための条件」が増えることになるからだ。これは実際の出費もそうだし、世間の評価も同様である。個人の幸福の為にと新たな価値観を推していった結果、大多数が不幸になるという皮肉な結果になるのではないかと思う。
更に言えば、大多数の人々がオシャレである必要があるのかは疑問である。
オシャレとはあくまで趣味の一つで楽しむものなので、参加するかしないかは個人が決めることであり、やっていないから駄目だというものでも無い。それを半ば強制参加のゲームにしてしまうことは、趣味の範囲から逸脱したものになってしまう。これは趣味本来の楽しさにも関わってくる。
「日本全体を幸せにする為に、ダンスを普及させたい。」という人がいたとして、広まり始めた後に「ダンスが下手な人はダサいです。ダンスを学ぶためにここのスクールに行きましょう。」と言った結果、ダンス人口が増えた場合は果たしてダンスを楽しんでいる幸せな人が増えたと言えるのだろうか。
最後に、僕はファッションについては一般的な社会生活において最低限のTPO(冠婚葬祭や会社の規範程度の)をわきまえていれば十分であると思う。
そのTPOのラインを自分たちの有利な方へ、よりコストがかかる方に動かすことは、マナー講師が新しいマナーを作るようなものであり、あまりカッコが良い事ではないように感じる。
好きなファッションを楽しんでいたり、ファッションにとらわれていない人を藁人形にし、「これはダサい」と言って批判するような「冷笑的なオシャレ」流行の先に、大多数の人々の幸せはあるのだろうか。
そういう事を言いつつも、なんか微妙に流行ってそうだと思ったクラシックカープリントのTシャツを(普通にダサかっこいいとも思ったので・・・)買っている自分がいるのも人間の複雑さの現れという事でひとつお願いします・・・。
2025年9月19日金曜日
noitaにハマる
最近、インディーズゲームのnoitaにハマってる。といってもまだ70時間程度なのでまだまだではあるけど。
このゲームは基本のステージについては毎回同じで、バリエーションは少ないけど、とにかく武器である杖のカスタマイズが多彩過ぎるので、ある意味スマホゲーのガチャ要素に近い。
とんでもない強力な杖が作れた時は脳汁ブシャーになるレベル。
ただ、難易度がめちゃくちゃ高い。70時間やってようやく1回ノーマルモードをクリア出来たくらい。上級者向けのナイトメアモードは1~2ステージから全く進める気がしない。
頻繁に理不尽な死に方や事故死が起こるので、時々「はいクソー!二度とやらんわ!」みたいな事を言うが、次の瞬間には再開している。
強い杖を作れてもクリア出来るかはわからないが、その杖で敵を蹂躙する快感が忘れられないのである。
ちょっと前までシルクソングを心待ちにしていたが、まだもうちょっとnoitaを進めようと思う。
お疲れ祭りから自分へのご褒美
某資格試験を受けて早1ヶ月ほど、ようやく合格通知が到着した。 予定日よりも早くに結果掲載の通知メールが届き、心の準備ができていない状況で「どっちなんだ・・・」と久々に心臓の音が聞こえるくらいに緊張した・・・。 とにかく合格出来たので、節目の記念に革靴を購入することにした。...
