2026年9月7日月曜日

ダビスタの思い出

 小学生の頃、ダビスタにハマっていた。競馬がどういうものかはあまり良くわかっていなかったが、それでもなんとなく強い馬を作るためにひたすら続けていた。新しく馬を作ってはレースを見守り、また新しく馬を作り。その繰り返しがただただ楽しかった。

そのうち、育成の楽しみはパワプロのサクセスモードに移ってしまい、プレイすることは無くなっていった。



それから十数年、成人して友人と宅飲みをした翌朝、ふとゲームがしたくなって何となくダビスタを始めた。当時の記憶を思い出しながら配合をどうするかを考えていた。

少しして友人も起きてきた。彼も競馬には詳しくないが、これとこれを配合してみたら強いんじゃない、という調子で一緒にゲームを進めていく。

しばらく忘れていたゲームを友人とやる感覚が懐かしく楽しかった。たとえ強い馬が生まれなくても共にプレイしているだけで楽しいのだ。



そして最初の1頭が生まれ、名前を決める。

「名前どうしようか。」

友人と検討を重ね、名前が決まった。







ガマンジル。



友人と共に初めてやったダビスタで、ガマンジル号が誕生した瞬間である。


ガマンジルはすくすくと育ち、ヤンチャだのスピードが早そうだの言われつつ、あっという間に厩舎デビューとなった。

しかしこのガマンジル、足は早いが堪えることが苦手らしく、結構な頻度でレース後半に失速して画面外に消えていくという早漏劇場型の競走馬だった。

なので、手に汗握る戦いを毎試合繰り広げており、特に後半の直線では二人で懸命に応援をしていた。


ガマンジル!ガマンジル!垂れるな!いけ!!

ガマンジル!ガマンジル!ガマンジル!あーーーー!!!(失速)」


結局、G3に1勝したところで能力の限界となり、引退まで重賞を勝つことはなかった。

しかし、彼は僕らに大切なことを教えてくれた。







大人になっても下ネタで全然盛り上がれる。

ちなみにこの後も当牧場からは続々と競走馬が排出されていき、差し馬のカリ、先行型のウラスジと続いていくことになる。

宅飲み翌日のダビスタはなかなかオススメ。

2026年9月5日土曜日

死の恐怖のプロセスと生の扱い方についてのメモ

 最近考えたことのメモ。


人が死を避けるのは、実は後天的なものではないかと思った。

人に危険な何かが迫った時にそれを回避する行動を反射的に取るが、これを自分自身が認識して解釈して、「自分は死にたくないと考えているんだ」という認識が出来上がるのでは。

例えば、赤ちゃんの頃は自分自身を客観的に見ることが出来ないので、死を恐れるというよりは脊髄反射で危機に対して動いていて、後に自己を認識してメタ視点を獲得した後に「自分という個体が危険に対して抵抗しているので、おそらく死を恐れているのでは」という考え方が固定化していくと言えるんじゃないか。


思考実験として「虫は死を恐れるのか」を考えてみる。

自分自身を認識出来ない可能性のある虫が、危機に対して「死にたくない」と考えられるか。

外から見ると「脊髄反射で危険を避ける」と「死を恐れて危険を避ける」は同じに見えるが、結果に至るプロセスが逆になっている。思考から行動か、行動から思考か。


このプロセスはほぼ一体のものではあるけど、逆転している事で、もしかしたら行動から死を避ける心理を変えられる可能性がある。死ぬ可能性があるけど進んで行動出来る。ここから死への恐怖について個人差があるという事につながる。幼い頃から死ぬことへの想像を深くする程、死を恐れるプロセスが強固になる。その逆もしかり。

なので、個人の幸福(という曖昧な観点)から考えると、死の認識を深める際に死の恐怖は後天的であると認識しておくことが重要ではないか。


以上の思考の上で自然な「生」の扱い方も考えてみる。

「生」と「死」はそもそも対称的な質量を持ったものではなく、死が大半を覆った上で生が僅かな塊として存在しているという考え方。例えると、海を「死」そのものとし、「生」はそこで一時的に偶然集まった小さな有機物の粒のようなものである。

なので、自然は「生」が根底にあると考えるのではなく、「死」を基礎とした生命への眼差しという一見矛盾した考え方も出来るように思う。

これは、生命の一瞬一瞬が偶然にそこに溜まったものであり、本来の自然から反した存在であるとも言える。だからこそ、死は当たり前にそこにあり、特別なものではないという考えになる。

この考え方は、生に執着しない事で「自然における生命のあり方に反しない生き方」が出来るんじゃないかと思っている。ただし、これは「だから生に執着しないでさっさと死ぬべきだ!」じゃなくて「生を少し手放すと生きやすくなる」んじゃないかという推測である。


とりあえず今のところはこんな感じです。

なんか核心には至れないけど、多少意識の転換は出来るのかなーと思いつつ、今後も考えていきたいテーマだと思ってます。

2026年9月2日水曜日

不安駆動の世の中

 現代、過去にかかわらず、社会は不安を根底に動いている気がしている。不安は需要を生み出し、それは行動における答えとなる事も多い。

現代における不安の身近な例は社会的な孤立ではないか。

元々人間関係は流動的なものであるが、仕事や趣味のグループというのは昔から存在しており、一時的に生存確率の向上と共に孤独という不安から逃れる術として発生したものである。SNSの発達もこうした不安から逃れたいという願望から利用が加速した側面も考えられうる。

では、SNSで24時間繋がりを保つことが出来る現代においても孤立不安が発生しているのは何故か。

それは、SNSでの関係性がベースになるほどに一般化した為、より深い関係構築でなければ幸福を感じられなくなったのではないか。幸福に大して麻痺している状態である。

例えば新たな環境に身を置く場合に最初は不安を覚えるものであるが、数年もすればそれなりに安心感を得るものである。しかし、期間が長くなればなるほどその状況に不満を覚えるようになる。その関係性をベースに幸福度を考えてしまい、麻痺している状態だ。

マズローの五段階欲求説では段階的に欲求が満たされることでより高次の欲求が生まれるとされているが、所属と愛の欲求が満たされても生理的欲求や安全の欲求が強くなるケースや、逆に安全への欲求を脅かすような挑戦を行うケースはある。

会社でもそれなりのポジションに落ち着いたと思ったら、リスクの高い転職をして人間関係や社会的なポジションを不安定にしたり、危険なスポーツなどに挑戦してみたりするのはよく聞く話だ。

むしろ欲求には階層的な優先順位があるというより、複数の欲求が常に並存し、その強度が状況によって変化するのではないか。

つまり、実は人間は挑戦という名の不安を求めている。安定した状態を保てるように出来ていない可能性がある。


ここで一つ内容を狭めた仮説を置いてみる。

「現代の転職市場が盛り上がっている」のは、「SNSの普及によって視野が広がり、より高いキャリアの環境を見ることが出来るようになったので、より高い安定を求めて動いている」からではなく、「SNSにより所属の欲求が一定のレベルで安定するようになった事で、他の欲求の不確実化を求めるようになり、その一角が転職というリスク行動である」というものだ。

これは「より良い環境へと移る」ということではなく、現在の安定的な状況に対して逆に不確実性を欲するようになり、それを合理的な回答とする為に「より良い環境へ移る為」という風に自ら変換し、行動を起こしているのではないかという可能性の話である。

リクルート業界の広告では「より自分の実力を発揮できる環境に」という謳い文句が殊更に使われている。これは挑戦であるわけだから、本来は安定を求めているのであれば転職を誘引する言葉にはならないはずである。なので、謳い文句になっているキャリアアップという言葉は実は「不確実(=不安)」という事の変換された形となっているのではないか。

このような安定化させない人間自身の仕組みが、世の中に差異を生み、多様性を高くして人類全体の生存の確率を高めている。つまり世の中が不安定であるというのは全体で見れば競争が行われているという事なので、正常な環境である証拠であるとも言える。

2026年8月25日火曜日

バイクで高速に乗る

 ここ最近になってバイクで高速道路に乗るようになった。特に行ってみたい場所があるわけではなく、とりあえずの目標地点を決めて、高速走行を楽しむ為である。

今乗っているのはYAMAHAのMT-03(2020年・カスタムはラゲージ取り付けくらい)で、一応は120km/hでの走行は可能な排気量ではあるが、100kmならまだいけるものの120kmになると風で体がふっ飛ばされそうになるのとハンドルの振動がなかなか耐え難い状況になる。

一応30分~1時間程度はなんとかいけるが、その時点で休憩中に手のビリビリとした感覚がしばらく続く。

色々情報を集めると、400cc程度の対策していないネイキッドだとやはり仕方が無い事のようなので、近い内にスクリーンだったりとかハンドルバーエンドを重くするなどカスタムをしようと思う。

ただ、結構な出費になるので徐々に・・・・。それまでは何とか耐えていく方針で行こう。

ゆくゆくは地域を跨いで高速含めたツーリングがそれなりに快適に出来るようにしたいところ。


あと、この短期間に3回ほど立ち転けし、うち2回はブレーキレバーが曲がるという。

曲がった時には最初は気付かず、家に戻ってから

「あれ、ブレーキレバーってこんな”J”みたいな形してたっけ・・・?」

と製品写真を改めて見てから気がつくという。

そして1度は交換したがすぐに転んでまた”J”になったので使用に適さない状況にならない限りはこのままにして、いずれ可倒式レバーに変えてやろうと思うがそこそこ値段するなぁ・・・と。

2026年8月2日日曜日

清掃業務

 職場の袴田さんが辞めるらしい、と同じくパートの年配の方から聞いた。

御年75を超える袴田さんは以前から腰が痛いと言って清掃業務中でも小休止を取りがちだったので、気になってはいたけど急な話だなと思った。

先日も少し離れたオフィスビルの一角の清掃に行くのに、しばらく歩いてはフェンスに座り込んだりして休憩を取っていて、夏場だし年齢も考えると仕方ないよな、と思いつつも清掃業務はきっちりこなしていたし、少し休憩が増えた所で余裕はたっぷりあったから、そう大した問題ではないとも思っていた。

オフィスビルの除草やゴミ拾いが終わって帰ろうとしたら袴田さんは「私はゆっくり行くから」と言って腰を軽くかがめつつ少しずつ歩き出した。

「いえ、僕もついてきますよ」

「ううん、大丈夫だから。」足を擦りながら言った。

「足と腰がね。手術でボルト入れてるから。膝に。」

ふぅと息を吐くと

「早く歩けなくて、困っちゃうわよね。」

僕は「そうだったんですか」と続け、少しそこで話をして、申し訳ないが先に行くことにした。

そこで待つことで余計に気を使わせそうだと思ったからだ。

神社へ向かう参道が帰り道になっている。僕は時々後ろを振り返り、袴田さんが見える限りは確認しながら歩いた。

袴田さんは道端に積まれた石垣に腰を下ろして、向かい側を見ている。

この暑さだから、熱中症には気をつけたほうがいいよな。

そう思いつつも、僕はそのまま職場へ向かう為に十字路を曲がった。


そもそも清掃業自体、自分よりも年上の人しか居ないし、80代の人がリーダーのような形で取り仕切っている現場で平均年齢もそれなりに高い。

話せば体のどこかには不調なところがあって、休憩中は病気とか病院とか寝れないだとか、そんな話が飛び交っている。

そんな面々だから、度々急病で休みとかがあった。でも人員がそれなりにいるので負担はほとんどなく、「ああ、それぐらいなら」と、追加される業務にもすぐに慣れていった。

休憩時間になると、僕は部屋の隅っこで文庫本を読んでいることが多かった。今日は先日の古本屋巡りで手に入れた「善の研究」を読んで、たまに聞き耳を立てて周りの話を追っていたりもした。

時々、ゴシップの話をしている時は、グッと喉に力が入る気がして、そのまま本に意識を無理に持っていこうとする。そんな時は大抵、頭の中に泡立つように言葉が浮かんでくる。それは確かな話なんですか。現実的じゃない気がします。噂程度で決めつけるのは違うと思います。

ふぅ、と息を小さく吐いて、頭の中の声が落ち着くように本に目線を移した。

娯楽なんだ、これは。と繰り返して打ち消そうとする。


鷹野さんがスマホを持ちながらシフト表を覗く。

「大塚さんて辞めたの?」

そう言いつつもあまり興味が無さそうな、相変わらず感情の入っていない声で話す。

先月の頭からパートで入った大塚さんは若かった。といっても僕より2~3歳上だったと聞いたが、平均年齢から考えれば十分若手だ。一生懸命、袴田さんの後について仕事を学ぼうとしていた。相槌の「はいっ」が極力気を使ったようなこぢんまりした発音だったのを覚えている。

2回ほど午前中の業務で見かけたが、それから見なくなった。

木崎さんがふん、と少し長い鼻息をすると「いや、別の部署に行ったらしいよ。別のビルの。」と答えた。

楠木さんも話に乗っかってきていた。

「仕事が合わんかったんじゃない?ちょっとさ、気が弱いっちゅうかね。」

「ああ、へえ。」と鷹野さんはスマホを触りながら返事をしていた。

横でアルバイト同士が話してるのを聞きながら、目線は本に落としている。

「袴田さんとか、山野井さんがかわいがってたのにね。」

木崎さんの声色は平坦で、言葉を放り出すように話した。

僕は現場での大塚さんは見ていないが、掃除用具倉庫の準備中に所在なさげな感じだけは伝わってきていて、どこかで長続きしなそうだな、という予感はしていた。


会話が2~3週すると、いつのまにか話題はメジャーリーグの話になっていった。大谷が二刀流で投打の活躍を見せた。相手はホームラン王を争う強打者だったが、1安打で抑えたとか、ニュースでやっていたであろう話をしているようだった。

「瀬谷くんは、野球とか見ないの?」

突然話が振られた。僕は本から木崎さんに目を向ける。

「ええと、たまにyoutubeとかで昔の選手の動画とかは見ますね。上原とか松坂とか。」

「世代だったよな、そういや。」

実際は世代ではないが、そうですねぇ、と微笑んで返事をする。

「でも、テレビが部屋に無いので今のニュースには疎いんですよ」

「テレビが無いの?暇じゃない?」

テレビを見てると不安になる、なんて言えないので「youtubeで事足りちゃってますね」と自嘲気味に笑ってみせた。

「へぇ~・・・俺らのころは・・・今もそうなんだけど、テレビはずっと流してんなァ。ずっと。」

驚いてる木崎さんに話しかける。

「まあ、そうですね。youtubeも飽きてきてはいるんで・・・あった方がいいかもですね。」

「そうだよなぁ。やっぱりねぇ。」

木崎さんは満足げに話すと、元のメンツでの会話に話を戻していった。

僕は、本に目線を戻したが、どこまで読んだかがすぐにわからなくて、数ページ戻したり、先を読んでみたりしつつ休憩時間を過ごした。



昼前の清掃が始まり、各種ホワイトボードに振り分けられた場所へ清掃用具を持って散っていった。

僕は休憩室がある廊下とトイレの清掃をする。短時間なので、そこまで大変なことはない。30分くらいで終わらせて、あとは時間を潰せる業務を探す。

廊下を付け替え式モップで拭いていく。ぐるっと1週したら、今度は拭ききれない真ん中から拭き始める。

途中に、小さな黒い筋汚れが見えた。ヒールマークといって、靴の底をこすったり、運搬かご用のゴムタイヤによって床に付くことがある。

僕はモップでこすり、落ちないのを確認すると先の方の清掃を続けた。

一通り拭き終わって、モップのクロス部分を取り外して見てみると、結構なホコリがべったりとついていた。腰に巻き付けてあるウェストバッグに外したクロスを入れて、トイレ用具を倉庫から取り出して掃除を始めた。


「ちょっと、瀬谷くん。いる?」

ふいにトイレのドアの外から呼ばれたので、便器の掃除の手を止めて外に出た。

出た先には袴田さんが立っていた。

「ここ、ヒールマークついてるでしょ。」

指をさした箇所を見ると、確かに硬いゴムを引きずったような黒い跡がわずかに数cm程度残っている。

「こういうところが大事だから。結構見落としちゃうけど。」

袴田さんが持ってきたモップをおいて、足で踏みつけてギュッギュッとこすった。

足を離してみると、床にヒールマークは残っていなかった。

「こういうのさ、見てくるからね。」

はは、と苦笑いを作ると、袴田さんの顔は真剣だった。

「はい、すいません。」

「うん。それじゃ私は倉庫行くから。」

袴田さんはふっと体を翻して廊下の角を曲がっていった。

油断していたなと思ったと同時に、あの時の表情には心の内を見透かされてる怖さがあった。

2026年7月28日火曜日

文化が変化するのはパクリと飽きなのか

 パクリとは悪いものである、という認識は割と一般的ではあると思う。模倣自体は肯定されるべき場面はあるものの、商業の場に出た途端に悪だと認識するケースは多い。場合によっては有ること無いこと書かれて炎上してしまう事すらある。

この炎上が良いことか悪いことかは一旦置いといて、パクリは飽きを引き起こし、変化を始めるとまたパクリが起こり・・・を繰り返すのではないかという事を考えてみた。


パクリとは、他者が作った製品やアイデアなどを引用元を示さず、自らのオリジナルもしくはアイデアを自ら発想したとすることである。大抵は発表することで利益になったり名声を得たりする。

(ちなみにこの文章でいう「パクリ」とは、 単なる模倣ではなく、 他者の創造的成果へフリーライドし、 文化的更新よりも経済合理性を優先する模倣を指している。)

似たような概念としてサンプリングがあるが、扱い方に違いがある。サンプリングの場合は元ネタを別のステータスやジャンルへと移したり、一部の要素を変更、切り取る事で再評価を得ることである。

例えばデュシャンの泉はトイレの便器を芸術として発表したが、芸術品とされていなかった便器を芸術とする事で、そもそも芸術とは何かというメタ視点を導入し、「美術とはなんだ」という脱構築を行う意味もあった。

ここで行われているのは、実用品から美術品という概念の移行である。視点が変わると新たな視点を提示したとして評価される。

他の例として、ヒップホップでは他の音楽の一部のフレーズを切り取ってリピートして使う等することで、元ネタには無かったグルーブ感や空気感を作り上げる。これも同様に、一部を使って別の文脈や曲調を作り上げて新たな価値(曲)を創造している。クラシックの曲の一部をリフレインすることで、クラシックではない新たな文脈を聴衆に提示する。こうした編集により、新たな視点を提示する事は創造的な行為と捉えられうる。

パクリとオマージュには時間的な視点もある。既に一般的になってコモディティ化した製品を、改めて要素の一部を変えて販売するという事もある。これは常識となったモノの一部を変える事でオリジナリティを出そうとする行為である。ただし、「引用を示さずに」というパクリの定義を持ってくると、サンプリングは無断でというケースも多くグレーなところなので、ともすればパクリとされてしまう素地は十分にある為、サンプリング自体も慎重に扱うべき概念である。


では、パクリとはどう成立するのか。

基本的にパクられる元になったものは「センスがあるもの」「売れる価値のあるもの」であるが、その為には個人の多大な労力や、研究開発の費用や期間、分析その他諸々がかかっている。優れたものは基本的には無数の失敗や成功の積み重ねなどの表に出てこない多大なコストの元に成り立つものである。

そしてパクる場合はそれらのコストを経ずに近しいものを作る。

先駆者たる人や組織のような優れたモノを作る人や組織に資本が集まることは、文化の進歩を促進させる文化を育む可能性が高くなる。だからこそ、先駆者の創作・制作物は広まり、売れていくべきである。これは業界を変化させ、しいては文化の変化を担保する要因となる。

しかし、パクる場合に必要なのは、元の設計図にあたるものである。法的に許される模倣と、倫理的・文化的に許容される模倣は必ずしも一致しない。だから訴えられるまでは合法である、と割り切って考えることも出来る。

そして、パクリ製品が売れた場合に資本がそこに集まると、次に行うのは「より売れる製品のパクリ」である可能性は高い。

なぜなら、革新的なアイデアや製品を出せなかった人や組織がパクリで経済的に成功したならば、合理的に考えて次も同じ事をする可能性は高いだろう。そこにある理念とは「経済性の論理」である。売れるからパクり、それまでに蓄積されたノウハウやその製品の人気にフリーライドするという事が事業モデルになっていくのである。

人気の服があって、それをパクって安く作った場合、パクリ元よりも価格の面で優れている事が多い。なぜなら研究開発に当たる部分がぽっかりと抜けているからである。

経済的なメリットを優先し続けるならば、人気のものをパクリ続けて元よりも安く、またこだわりの部分をスポイルして体面が整う程度のものにダウングレードする。これでネタ元よりもパッと見で同じような安くて失敗しない、大量生産可能な"経済的に良い"ものが作れる。

つまり、パクリによるフリーライドは経済的なメリットを享受するにはうってつけである。一見、資本主義社会においては正しいのでは無いか。


ただ、模倣の先にはデメリットがあると思う。

模倣は変化の為には必要な段階で、作り手や発信者には何故売れるのか、センスが良いと言われるのかの理由が分かったり、「こうなっていたのか。」と気付きを与える。何事も真似てみて分かることは多かったりする。

そして消費者や受信者には飽き(変化への欲)を徐々に与えていく。商業的にも同じ商品が並んでいたら、差異が無ければ売上は変わらない。模倣することで差別化への理由が発生するという道が現れる。そうすれば自然と新たな文化を作る人が現れていく。

その中には失敗と成功が発生する。これは売れなかった、評価されなかった、これは売れた、評価された。

そんな試行錯誤の流れが変化を生み出す。結局のところ、模倣の先に「本来あるべきサイクル」に回収されていく道筋があるように思う。

もう一つ、模倣を続ける事のデメリットがある。

それは、その製品群には背景が見えないので、文化を変化させるだけの強い力が無いのではないか、という点である。

人は何かにつけて物語を欲する傾向がある。成功者の本が売れているのは「そこには成功に至るまでのストーリーがある」と信じたいからだ。

また、人だけでなく組織にもストーリーは必要だ。会社理念を作り上げることで社員も含めて物語を感じ、その歴史の末に出来た製品を手にするというのは大きな付加価値になる。

その中には理念の為に経済性を弱めて作り上げた製品やアイデアもある。だが、それこそにその会社の本質が詰まっている。そこには経済性というノイズを削って作り上げたという希少性があるからだ。

だが、もしパクリ続けて「今売れている製品」のみを作り続けている人や会社には、そういったストーリーは作り上げられづらい。あえて出すのであれば「顧客が求めているから作る」という物語だろう。

だからこそ、製品自体に過剰な説明を付けなければならない。そこには「どうしても欲しい」と考える為のストーリーや背景が薄い事で、自然と購買者が感じうる魅力、パワーがそうそう出てこないのである。

そして、ストーリーが欠落したものからは「作品同士の繋がり」が見えなくなる可能性があるという点である。

企業にも理念があり、個々人にも理念はある。それらが作る製品には一つ芯が通っている。

この芯はユーザーに蓄積され、「この会社はこういうサービスや製品を作る」という印象を作る。

環境を守りつつ快適な生活を守る。

自由と既存の表現への挑戦を行う。

世界に誰もがアクセスする事が出来、様々な不均衡を解消する。

それらは困難にも見える内容だが、わずかでも達成することで革新性に繋がり、世界をより強い方向へ変えていく。

経済的メリットを取り模倣を続けることは、この概念を持つことが難しい。

もちろん理念を掲げることは可能だが、行動と理念のズレが起こった場合、いつの間にか行動が理念を上書きしてしまい、一応掲げた理念が形骸化してしまう事は起こりうる。「やってることと言ってることが違くない?」と活動に関わる社員すらも感じる状況だ。

そしてその中で現れた製作・創作活動からは、消費者や受信者には経済的優位性の印象ばかりが残る。そこからは人に響くストーリーはなかなか現れてこない。

もちろん経済的優位性に惹かれて購入する人もいる。だが、それはその製品自体ではなく「書かれている値段と説明された価値との差分」を評価した結果ではないか。「金額ではない」ものが生まれる為には、”代用品”な存在では難しい。経済的メリットを説かれて買ったモノに経済的価値を超えた価値を見出す為には、そこに自ら作り上げた強いストーリーを結びつけなければならない。(「初めてバンド活動をした時に買った安いけど思い出深いギター」みたいな本当に個人的なものである。)

こうして大多数の模倣は変化に飲み込まれていくだろう。

だから、時代を進歩させるものというのは経済だけではない。むしろ、非経済的なこだわりから生まれるものが時代を変える事も多い。

なので

「この製品は、他の高級品と同じ素材を使い、作り方もこだわりの工場を使っています。デザインも現代の人気になっている形をそのまま作り上げています。」

よりも長く残るのは

「この製品は、もしアメリカントラッドが日本ではなくイギリスで作られていたならどうなっていたか、現状の文化の再解釈を行って作ったものです。」

の方がそのジャンルの愛好者には響くのではないだろうか。なぜなら文化を変化させうる力をもたらす期待があるからだ。

こうして硬直化と変化を繰り返し、過去を参照しつつ新しい変化を見つけていくのだろう。

とはいえ、目先のトレンドよりもっと長い周期でのトレンドはあると思う。カッコいいの基準が「正解がある」とされている所から、「人それぞれに答えがある」不安定な状況に、そしてまた「正解がある」・・・といったような流れがトレンドの底にもう一つ流れているようにも思う。

2026年7月25日土曜日

普通二輪のぽせ

 先日、ついに普通二輪MTの試験に無事合格した。

試験の際は緊張が僅かにあった程度だったが、S字クランクであと2mmズレてたら失格だと教官から言われたので、試験走行後が一番ヒヤッとした。

改めて振り返ると、バイクに乗りたいと思った理由もふわっとしていて、クロスカブ取得時は近年規制が厳しくなった自転車の代わりにとは言っていたが、そもそも自転車もそんな乗っていないので大きな理由ではなかった。

知り合いに聞いてみても「なんとなく」という人が多い。バイクにはそういうふわっとした理由で乗りたくなる魅力がある。


後は免許の書き換えが残っているが、これが相当時間がかかるのでは。前回、小型ATの際は5時間程度待ったので、今回はどの程度かかるのか今から面倒だなーと思っている。

また、夏場は日中乗るのが躊躇われるレベルの暑さが続いているので、早朝とか夜とかにちょこちょこ乗って、秋に本格的に走りたい。

ダビスタの思い出

 小学生の頃、ダビスタにハマっていた。競馬がどういうものかはあまり良くわかっていなかったが、それでもなんとなく強い馬を作るためにひたすら続けていた。新しく馬を作ってはレースを見守り、また新しく馬を作り。その繰り返しがただただ楽しかった。 そのうち、育成の楽しみはパワプロのサクセス...