2026年3月8日日曜日

「物を溜め込む」ことと「ケアと記憶」についての考察

最近はぼんやりと欲しいものを眺めては「欲しいけど使わないよなぁ」と思う日々を過ごしている。
ある時はリーバイス501のリジッドが欲しくなり、何で欲しいんだろうと思い止めて・・・を繰り返す。
ある時は面白そうだと思ったゲームを買おうかなと思ったが、「似たようなゲームがめっちゃ積んでるのになぁ・・・」と思い・・・。

ちなみにリーバイス501に関しては洗濯して縮めて穿いて色落ちして・・・という流れが凄い魅力的に感じるけど、そもそもあんま同じデニムをいつも穿かないし。
デニムの色落ちって何かそそるものがあるなぁと思う。自然な穴開きとかも。
いつか全自動で歩行する足だけのロボットがデニムを穿いて街中を歩き回る世の中が来るんだろうか・・・。

そんな事を考えてたらふと思いついたのでメモ代わりにタイトルの文章を思いついたので以下。


物を得る事(拾う・買う・貰う)で”自分の
物になる”ことは、同時にその瞬間の感情と記憶をその物に付加することになる。

その物をトリガーとして感情と記憶を思い出す為、”自分の物とする”とは”自身の外部化”であるとも言える。

自身以外の所有物ではどうか。例えば近所の家の花壇。街中にある面白いオブジェ。本屋にずっと置いてある書籍。お気に入りの飲食店の家具等...。

それらは準”所有物”とも考えられるが、所有と違うのは基本的にその物を他者がコントロール及び責任を保有している点である。これは物のケアの責任を持つという事になる。

ケアは単なる負担だと感じるが、物を味わう(自らの身体の一部と化す)事が出来る方法とも受け取れる。ここは國分功一郎さんの「浪費」の概念を借りている。その物をケアすることでケアする前と違う物になるよう多少なりコントロールする事でもあり、その瞬間から"自身の所有物"になっていくプロセスの一部となる。

その部分をわずかでも意識する限り、非所有者からは安定的なトリガーと成り得ない。カフェとかの調度品が”落ち着く”という感情のトリガーになり、常連となれば都度眺めることは可能だが、劣化も含めて違うものになっていく可能性はある。(家具を新調したりする可能性もある。)

人間は”自身の物”に対する差異に過敏であると思う。他者がその物との間に入る場合には感情想起や付加される記憶の減少はあると思う。

なので、部屋にゴミを溜める事は、ゴミになる前にそれを消費した結果生じた記憶や感情を置いておく事と同義である。食べたら美味しかったとか、美味しくなかったとか、熱かったとか、流行り物を食べたとか、そういった情報を物に付加する。

拾ってきた場合も同一で、そのゴミ(物)を拾った時の高揚感であったり、記憶(その物に関係のない事、例えば丁度その時気分が良かったとか)を思い起こさせる。

積読もその一部で、書籍の見た目とかタイトルとかから、感情の変化があったり、内容を想像したりする事が出来るので、内容を読まずとも意味を持つ。

では物自体が見えない部分にある場合はトリガーと成り得ないのか。その時は「可能性」として存在し続ける。別の物と関連してその対象が思い出されるのであれば、その物(ゴミであれ本であれ)は所有していると認識する。もし誰かに知らないうちに捨てられて無くなっていても本人が認識していなければ、その物という情報は他の物やそれを得た時の感覚、記憶などの関連で”存在”し続ける。

つまり、物が感情や記憶のトリガーなるのと同時に、物は情報となり、他の情報(感情や記憶)のネットワークを作るのだ。(ただ、トリガーとしての機能は弱くなる為、それ自体が想起させる頻度や強度は低くなる。)

ゴミ屋敷の住人が使用していない過剰な物を捨てるのを拒むのは以上が理由ではないかとも考える。

以上より

・物には「受け取った・消費した段階の情報」を付加されてトリガーとなり、その時点で情報に変化して他の情報(物であった物も含める)との相互ネットワークを作り上げる。

・物はケアすることで相互ネットワークの中で強く自身の記憶や感情と結びつく。

・物は無くなったと認識されると、その物自体はトリガーとなりえないが、即座に情報が消えるわけではなく情報の相互ネットワーク上で残る可能性がある。とはいえ触覚や視覚を伴わない為、トリガーとしての機能は弱くなる。



でも、逆に物を置きすぎると情報の波に飲まれるのではという懸念がある。

SNS中毒だと記憶力が下がるとか弊害が叫ばれているが、物がそこにある限り情報は飛び込んでくる。(その性質と量は段違いかもしれないけど)

逆に、物を集め過ぎるというのはSNS(情報取得)中毒と同列で扱う事も可能ではないか。

前に考えた「浪費」の観点だと行き過ぎた所有は満足を生じるが、物が情報化した場合は満足しない。


じゃあミニマリストが良いかと言うと難しい。SNS等で情報を容易に受け取れる現代では、物のみのミニマル化をしても情報は減らない。むしろ、「私はミニマリストです」と情報発信してSNSに触れている状況が情報の波に飲まれている=物が周囲に溢れているのと同一とも考えられるので。

ではミニマリストを徹底するには情報を遮断しなければならないのでは無いか。情報のミニマル化。入力を極端に減らす。でもそれは難しい。大抵の人は暇と退屈に耐えられない。日々に何らかの変化をもたらさない限り、精神的に追い詰められてしまうのでは。

人間が危険予知の為に情報を集め、グループを作り生活するという性質を持っている個体が生き残っている現状から考えると、その「置いていかれている感」に対して本能的な警告がでていてもおかしくない。

そんな風に人を不安にさせる「置いていかれている感」とは、人は情報の波に飲まれつつも、少しずつその情報により思考を変化させている感覚ではないか。同じ物を見ても時間ごとに僅かな違いを感知するようになっていく。退屈だと思いつつも、その僅かな違いは精神の救いとなっているのではないかと思う。

以上より、ミニマリストになる事でこの情報の波を軽減出来るのではという可能性は難しいと考える根拠である。

とはいえ目的があればまた別なのかもしれない。ある物を買いたいとか、将来の安心を得たいからお金を溜めるとかそういう感じの。


あと、現代におけるミニマリストの対義語はマキシマリストではなく”一般的な我々”という考え方もあると思う。マキシマリストはミニマリストに対して全く流行らないので、皆はどこかで違和感を感じてるんじゃないかと。というのも、「浪費」が難しい世の中なので、自然状態であると物はどんどん増えていくから。

・マキシマリストは好きなものを意識的に集めるが、情報は好きなものに特化する。ミニマリストは好きなものを意識的に減らすが情報は特化せず収集・拡散する。

・”一般的な我々”は自然に物が増える。ミニマリストは意識的に物を減らす。共に情報は特化せず収集・拡散する。



以上のような事を近内悠太さんの著書を読んでて思ったりする日々。だいぶ論理的に怪しいけど、とりあえず今はこんな感じです。

2026年1月16日金曜日

お疲れ祭りから自分へのご褒美


某資格試験を受けて早1ヶ月ほど、ようやく合格通知が到着した。
予定日よりも早くに結果掲載の通知メールが届き、心の準備ができていない状況で「どっちなんだ・・・」と久々に心臓の音が聞こえるくらいに緊張した・・・。

とにかく合格出来たので、節目の記念に革靴を購入することにした。

伊勢丹新宿あたりに行こうかと思っていたが、丸の内に各メーカーの直営店舗があるという事でそちらへ。

とりあえずどこから行こうか迷っていたが、確かJ.M.WESTONのゴルフが凄く使いやすいという話をどこかで耳にしていて、駅からも近いので行ってみる事にした。

噂ではかなりシビアなフィッティングをすると聞いていたので、覚悟してから入店。

早速店員さんに足を計測してもらうと、6(25.5cm)Cウィズが最適ではないかとの事。
普段履いているサイズは6のDウィズ。
めっちゃキツいフィッティングと聞いていたけどそこまで辛い感じもなく、大丈夫なのかなと思い、他のサイズも試させてもらった。
すると、どれもフィット感がゆるく感じたり、逆に極端に強く当たる部分があったりとイマイチ合わない。
再度、店員さんおすすめのサイズを履いてみると、全体的に偏りが無いギュッとした圧迫感。小指と親指の外側に沿って、しっかり押さえてくれている。
足の甲の羽もちゃんと開いているので幅は十分な模様。
紐で締め具合を自在に変えられて、しっかり閉めると強めの圧迫感で、足の裏が少し丸まる感じ。

「痛みが無いくらいで少しキツイくらいだと、馴染んできた時にちょうどよいフィット感になるんですよ。」

噂では万力締めと呼ばれるくらいガッチガチにやってくると聞いていたので、この感覚は意外だった。
それでも、幅が細いので接地した時に両サイドがしっかり押さえてくれるのがホントに心地良い。
革靴に履き慣れてくると、こういう圧迫感が凄く嬉しくて安心出来るような気がする。

形もとてもいい感じで、この野暮ったい感じも上品な感じもいける絶妙なフォルムがカッコいい。

元々、シャンボードのようなボリュームのあるUチップが好きで何度か試着をしていたが、登山靴が起源な事もあってか小さめのサイズでも何かぴったり過ぎて履いていくと緩い感じになりそうだったのが不安で手が出せなかった。
また、RuttShoesのリドリーを愛用しているが、こちらはアメトラ感が強くてオールデンのように意外と合う服装を結構選ぶように感じていた。
多分フレンドトラッドやカジュアルだと足元が重くなりすぎる気がする。
それならと夏に向けてベタにローファーかなぁとジャコメッティあたりを考えていたが、今回ゴルフを即決で購入する事に決めた。


そんなわけでお迎えして早々に試し歩き。
夜にパジャマ用のフリースセットアップに革靴という変態スタイルで出歩く。
スウェットパンツぐらいであれば受け入れてくれそうな度量があるゴルフ君。
しばらく歩いていたら、ちょっと足が痺れてきたのが逆に安心出来た。

今後履き慣らしていったらどんな履き心地になるのか楽しみになってます。

2026年1月13日火曜日

マストバイ・お得な買い物についての覚書

 最近、國分功一郎氏の「目的への抵抗」を読んで、ふと考えたことの覚書を書いておく。


人は「浪費」ではなく「消費」をしてしまう。

・消費は「流行りの物を買った」という情報を周囲へと広めるために購入する為、物を受け取ったという意識が薄く、満足をしない。その結果として際限無く物を購入したり経験に出費してしまう。

・浪費は「物を余分に買った」「身に合わない体験に出費した」と、合理性を欠いた贅沢をしたという意識を受けるため、気分を満たすことが出来、物自体を使い果たそうとする意識がある。

ちょっと間違ってるかもだけど、以上を踏まえて「マストバイ」について考えてみる。


「これは値段以上の出来だからマストバイ」「これはトレンドを押さえているからマストバイ」

ファッションにおいてよく使われる言葉だが、例えば「5,000円で(ある人が言うには)2万円の価値(があるはず)の物を手に入れた」という情報にお金を出してしていることになる。

この買い方は「流行りの物を買った」「値段以上の物を買った」という情報を元に手に入れているわけだけど、「実際に着用して値段以上の出来であることを実感した」という事になる可能性は低いのではないか。

そもそも個々人の感覚(この場合は満足感)の強弱は非常にわかりづらく、正確に意識できることは稀、というか不可能ではないか。そうなると実感を得ないままで不安な心境に陥り、そのギャップを埋めるために他の購入者の情報を集め始める。

いわば満足感を外部から取り入れるのだ。

「この服を買えて嬉しかった。」「確かに値段以上だと思う。」「トレンドに合致していてかっこいい」

購入”後”にその商品のポジティブな情報を集めがちになるという心理状態はマーケティングを学ぶと”心理的不協和”として出てくる。それらの評判を見て、自分が買ったのは正しいんだと後追いで思い込むようになる。

しかし実際のところ、その満足度を支えるのはその評判だけであり、その服を買っても何かがはっきりと変わるという事は稀である。

わかりやすい指標があればまだ違った話になる。例えば耐久度などは実際に体感し、数値化出来る可能性もある。ただ、数値化出来ず、人間の心理に依っているものである場合はその根拠は非常に不安定だ。

その結果、「その物が値段以上である」という情報に対して実際の効用とのギャップが生まれる。この程度では十分な満足は出来ないと感じることになる。言わば「お得な体験をした」という情報を購入したが、実感が湧かないので欲求不満になる。

これだと実質的にその物自体の価値を目的に買ったわけではないので、その物自体の価値を味わうことなく「お得」という情報だけを取り込み、消費してしまう。SNSなんかで周囲に「これを買った!」みたいな事を書き込んでアピールするなどもその消費活動の一部だ。

以上の実感を得ない消費活動では物が手元にあったとしても、一時的な情報の消費で終わってしまうので気持ちは満たされず、また外部に価値判断を委ねているがゆえに自分自身の価値基準が変わらず、次の「マストバイ」「お得な商品」へと向かう。これでは終わりがない。


じゃあ、ファッションにおいて浪費は可能なんだろうか。

これはかなり難しそうな気がする。ファッションブランドの来歴やどう作られているかを知っていると「こういう歴史、手間がかかったものを持っているんだ」という情報を消費している事になるし、自分の予算以上の物を買っても「いいと思ったから高いけど買っちゃった自分かっこいい」みたいに情報を消費することになるのでは。

でも、高い物を買うと例えばシャツとかでもスレて穴が空いた所をお直ししながら使い続けたりするし、そういう場合は物自体に愛着があって、情報を消費しつつも「もったいないから使い果たしたい」という浪費の側面もでてくるんだろうか・・・。


言わば「この服は自分の体の一部である」という認識に至れば、「浪費」することが可能ではないか。

その為には愛着を持つことであるが、愛着へのルートは「実際に対価を払っている事」「劣化したら直している」事も重要だと思う。

風邪を引いたら薬を飲んだり養生して治すように、肌荒れしたらスキンケアをしたり食生活を見直したりするように、その服自体に対してケアをする思考を巡らせることは一つの道だろう。やはりそのものの利用価値についてより多く考えることは愛着に繋がる。

愛着は対象への認識をを消耗品ではなく耐久財へと変える可能性があり、服がすり減っていく過程を楽しむ事が出来れば、劣化を「味」と捉えられるようになる。

この認識に達するには対価を払っている事も大切になると思う。それは自ら検討した上で採算を考えずにお直しする事(お直しすると大抵元通りにはならず、買ったほうが結果的に安いことが多いので)から生じうる代替不可能性がその物に付与されることで達成されるのではないか。その点で闇雲に「お得」という情報を消費することとは異なっている。

特に「得」であるというワードは価値判断を鈍らせる一因である。それは換金可能性の意識や周囲へのアピールの要素が多分に含まれているからだ。否が応でも物自体ではなく価格に意識が向かってしまう。同じく流行りの「高見え」という言葉もその一つであろう。


以上より、高くて品質は良いが耐久性は低価格帯のものと同じである服は買うべきか。

これは何をその人が重視するかによるし、その人の金銭感覚による。

ただ、消費せず浪費するという観点では、直して使い続ける前提を持つことが、浪費する事に近づける可能性は高くなるのではないか。

ただ、お直しして使うというのも「丁寧なくらし」的な記号として消費されるのでは?という疑いもある。

もっと純粋な「価格」「有用性」「イメージアップ」などの記号を超えたところにあるファッション体験でなければ浪費にたどり着かないだろうと思う。


今のところこのくらいしか思いつかないので、正しいか有用かは別として、また思いついたら修正したりしつつ続けてみようかな・・・と思う。

2025年12月1日月曜日

仕事着を普段着にする。

 最近、仕事で穿いているディッキーズのパンツを普段着でも使うようになった。色落ちの感じがリアルで服装に馴染む感がある。
ファッションの成り立ちを探っていると、普段仕事で着用していた服をそのまま転用して着ているという例が結構多く見られる。
自分を違う人にしてしまう服装もいいけど、自分自身の現状から延長線上にあるファッションも楽しい。

2025年11月21日金曜日

最近の流行り

 ・金子恵治さんのファッションが最近すごいツボになっている。前に電車で見かけたときのファッションが良くて、力が抜けているけど上品で、考えさせる格好だったのもあり、そういう思考を巡らせる余地のあるファッションは楽しそうだなと思う。

・GOGHを導入し、読書の時に活用している。VRCHATでも似たような事はしているけど、とりあえず使い続けてみて違いを探している感じ。

・インフルエンザが蔓延しているので、ワクチン接種を予約した。

・仕事用にダナーフィルドローを買おうか考え中。仕事行くたびに「あー、靴がエイジングされていく・・・ウッ!」ってなるのが楽しみになって出勤が苦じゃなくなるのでは。ボロボロになったダナーフィールドはクソカッコイイ。

2025年10月22日水曜日

ダイエットの弊害

 ここしばらくはダイエットに勤しんでいた。

2年前くらいに体重が過去最高になり、そんな中でマイナンバーの写真を撮影したら顔がパンパンになっていた為、これはまずいと思い毎食ごとにカロリーを調べて制限するようにした。

1年後、体重が爆下がりして成功したかと思いきや、カロリーを毎回気にして少なく食べてるうちに少食になってしまい、また油物を多く食べると胃もたれする為食べられなくなり、体重が下がり続けるようになった。

また、ちょっとカロリーオーバーしようと思うと罪悪感で結局食べられず。現在は高校の頃の体重を超えて下がっている状態になった。

このダイエットは神経質になりすぎる人には向いていないのかもしれない・・・。

2025年10月20日月曜日

「オシャレ」の流行は人々を幸せにするのか

          


僕は特段オシャレではなく、ファッションに興味があって雑誌を読んだりネットの情報を調べたりしながら、試行錯誤をしている程度なのだけれど、ここ何年かくらいでよく見かけるようになった「~はトレンド」「~はダサい」という趣旨の動画や記事。
これらを見ていると、徐々に主張の仕方が過激になっているように思うと共に、この流れの先には大多数の不幸があるのではないか、と感じた。




「オシャレ」の流行が人々を幸せにするのかについて言えば、ミクロの視点では一時的に人を幸せにする可能性はある。

個人の魅力を引き出したり、はたまた新たな自分を見つけたりできて、結果的に自信に繋がる事もある。加えて服を買ったときの嬉しさがある。なんだかんだで散財は楽しい。

こんな感じで要素を分解すれば、オシャレをする幸せの要素は色々とあるように思う。


では、マクロな視点ではどうか。

「オシャレである」という状態は「オシャレは差別化である」とよく言われることから相対的なものである。つまり、「オシャレでない」大多数がいることで存在出来る。ここまでは自然な状況であり、”区別”として「オシャレ」な少数の人と「オシャレ」でない大多数の人がいるだけである。

しかし、「オシャレでない」ことが「悪い事」「損である」とされる状況においては、大多数の人々もそのレースに参加するよう急かされる事になる。

「こんな服装してる人はセンスがない」「この服装は時代遅れでカッコ悪い」

服装が個人の印象へより大きく影響してくることになる。そうなると「大多数に対して"オシャレである"ことを要求される」状況が発生する。こうなると区別ではなく”差別”の性質を持つようになる。

これは果たして全体にとって幸福なのか。


そもそもなにが「オシャレ」なのかという事も判断が難しい。

オシャレであるかは個人の嗜好によって変化する。アメカジ、モード、きれいめ、トラッド、パンクなど色々なジャンルの視点があり、それらには個人の経験からくる好みも含まれている。

つまり、ある人にとってはダサくても、ある人にとっては素晴らしいと評価が変わる可能性がある。それゆえ「オシャレ」であるということを論理的に説明しようとしても、完全には説明できない。

インフルエンサーがこぞって「オシャレの法則」のようなものを公開し、それに沿ってコーディネートを紹介しているが、その理論を辿っても「ダサい」と言われるコーデは存在している。

また、本当に論理的に全て説明が付くのであれば時代を超えて絶対的にオシャレな服装が存在しうることになるが、現状はそんなものは無いように感じる。それはその人自身の外面内面含めた特徴が大きく影響することもあり、そう簡単には纏められないものであるし、そもそも色彩やシルエットなどの理論を超えたところにカッコよさがある、という場合もある。これを決めるのも法則ではなく主観的な意見である。

また、トレンドというものが個々のデザイナー(この場合はラグジュアリーブランドを初めとした有名ブランド?)の感性に委ねられているが故に、十分に合理的な理解ができないという点もある。

これらの点について無理に筋を通そうとすると、説明に齟齬をきたす。

例を挙げれば、以前はトレンドとして現れたスキニーパンツが、脚長効果をもたらすからと論理的にスタイルを補正するという意味合いと併せて持て囃されたが、今ではダサいファッションアイテムの筆頭となっている。そして現在はワイドパンツが足のシルエットと長さを隠すので脚長に見えるという、真逆のアイテムが同じ効果を持ち、かつそちらの方が今は優れているという説明がされていた。

体型補正という絶対的な基準をもってしてもオシャレな状態を説明しきれないのである。

要するに基本的にファッションは主観的かつ変化し続ける事が前提であり、絶対的というものは無いという事なのだろう。


でも、絶対的ではないファッションにおいて、ある服装を「ダサい」と公の場で表現するのはなぜなのだろうか。

そもそも「~はダサい」は個人の状況や嗜好を無視した上で言われる事が多い。

もちろん、ある集団が提唱する「オシャレ」になりたくてもうまくいかない人もいる。

しかし、例えば子供がいるので汚れてしまうと困るような良い服は着られない。昔から憧れだったブランドをようやく着れるようになった。着心地を優先して生活のストレスを軽減することに重点を置いている、などなど色々な理由が個人にはあると思う。

そんな中、総じてそういった「世間の評価をそれほど気にしていない人々」や「その服が好きで着ている人々」がやり玉に挙げられることになる。

それらの人々を揶揄して「この人たちはダサいです。オシャレになりたいならこういう服を着ましょう。」というのは藁人形論法のようなものであり、インフルエンサーの言う「オシャレ」をその人々は求めて居ないのに、そのファッションの一要素を切り取り、本人の意図とは違う解釈を行って「ダサい」と示しているのだ。

これらはマーケティングの手法としてであれば正しい。競争を加速させた上で世の中が自分たちの有利な方にコントロール出来るのであれば大変有効な手段である。保有しているものにより価値がつき、それを元に自分に有利なゲームを展開できるからだ。


結論として、「大多数がオシャレをすることで幸せになる」というのはミクロな視点かつ短期的には可能だが、長期的に見ると所属している環境をより厳しいものにし、その上でその人自身が厳しい環境に巻き込まれてしまう可能性がありうる。

マクロの視点でも、相対的に不幸な人たちが多く生まれる形となる。より競争が進み、ルッキズムの流れが激しくなることで今までよりも「普通であるための条件」が増えることになるからだ。これは実際の出費もそうだし、世間の評価も同様である。個人の幸福の為にと新たな価値観を推していった結果、大多数が不幸になるという皮肉な結果になるのではないかと思う。

更に言えば、大多数の人々がオシャレである必要があるのかは疑問である。

オシャレとはあくまで趣味の一つで楽しむものなので、参加するかしないかは個人が決めることであり、やっていないから駄目だというものでも無い。それを半ば強制参加のゲームにしてしまうことは、趣味の範囲から逸脱したものになってしまう。これは趣味本来の楽しさにも関わってくる。

「日本全体を幸せにする為に、ダンスを普及させたい。」という人がいたとして、広まり始めた後に「ダンスが下手な人はダサいです。ダンスを学ぶためにここのスクールに行きましょう。」と言った結果、ダンス人口が増えた場合は果たしてダンスを楽しんでいる幸せな人が増えたと言えるのだろうか。

最後に、僕はファッションについては一般的な社会生活において最低限のTPO(冠婚葬祭や会社の規範程度の)をわきまえていれば十分であると思う。

そのTPOのラインを自分たちの有利な方へ、よりコストがかかる方に動かすことは、マナー講師が新しいマナーを作るようなものであり、あまりカッコが良い事ではないように感じる。

好きなファッションを楽しんでいたり、ファッションにとらわれていない人を藁人形にし、「これはダサい」と言って批判するような「冷笑的なオシャレ」流行の先に、大多数の人々の幸せはあるのだろうか。




そういう事を言いつつも、なんか微妙に流行ってそうだと思ったクラシックカープリントのTシャツを(普通にダサかっこいいとも思ったので・・・)買っている自分がいるのも人間の複雑さの現れという事でひとつお願いします・・・。

「物を溜め込む」ことと「ケアと記憶」についての考察

最近はぼんやりと欲しいものを眺めては「欲しいけど使わないよなぁ」と思う日々を過ごしている。 ある時はリーバイス501のリジッドが欲しくなり、何で欲しいんだろうと思い止めて・・・を繰り返す。 ある時は面白そうだと思ったゲームを買おうかなと思ったが、「似たようなゲームがめっちゃ積んで...