パクリとは悪いものである、という認識は割と広く一般的になりつつあると思う。そして度々、パクリが判明するとその人や記事は炎上する事が多い。
この炎上が良いことか悪いことかは一旦置いといて、パクリの炎上はサーキットブレーカーとしてより世間にとって悪い状況になる前の防止弁となっているのではないだろうか。
個人的に、パクリは悪いことであり、業界を衰退させる可能性があると考えている。以下、その理由を書いていく。
パクリとは、他者が作った製品やアイデアなどを引用元を示さず、自らのオリジナルもしくはアイデアを自ら発想したとすることである。大抵は発表することで利益になったり名声を得たりする。
近しい概念としてサンプリングがあるが、扱い方に違いがある。サンプリングの場合は元ネタを別のステータスやジャンルへと移したり、一部の要素を変更、切り取る事で再評価を得ることである。
例えばデュシャンの泉はトイレの便器を芸術として発表したが、芸術品とされていなかった便器を芸術とする事で、そもそも芸術とは何かというメタ視点を導入し、「美術とはなんだ」という脱構築を行う意味もあった。
ここで行われているのは、実用品から美術品という概念の移行である。視点が変わると新たな視点を提示したとして評価される。これは一般的なパクリ概念から離れたものになる。
他の例として、ヒップホップでは他の音楽の一部のフレーズを切り取ってリピートして使う等することで、元ネタには無かったグルーブ感や空気感を作り上げる。これも同様に、一部を使って別の文脈や曲調を作り上げて新たな価値(曲)を創造している。これらは大抵の人はパクリという認識は無いだろう。それは元ネタが例えばクラシックなら、クラシックと同じ感覚でそのヒップホップの曲を聞いていないからである。
逆に言うと、パクリになるのは同一ジャンルにおいて、同一の文脈や用途で作られ、それを明示あるいは暗喩せずに引用をしている場合が該当するのではないか。
パクリとオマージュには時間的な視点もある。既に一般的になってコモディティ化した製品を、改めて要素の一部を変えて販売するという事もある。これは常識となったモノの一部を変える事でオリジナリティを出そうとする行為であり、これはパクリというよりオマージュと判断される事が多いだろう。
では、パクリとは何か。
基本的にパクられる元になったものは「センスがあるもの」「売れる価値のあるもの」であるが、その為には個人の多大な労力や、研究開発の費用や期間、分析その他諸々がかかっている。優れたものは基本的には無数の失敗や成功の積み重ねなどの表に出てこない多大なコストの元に成り立つものである。
そしてパクる場合はそれらのコストを経ずに近しいものを作る。
先駆者たる人や組織のような優れたモノを作る人や組織に資本が集まることで文化の進歩を促進させる可能性は高くなる。だからこそ、先駆者は広まり、売れていくべきである。これは業界を変化させ、しいては文化の変化を担保する要因となる。
しかし、パクる場合に必要なのは、元の設計図にあたるものである。法的に許される模倣と、倫理的・文化的に許容される模倣は必ずしも一致しない。だから訴えられるまでは合法である、と割り切って考えることも出来る。
そして、パクリ製品が売れた場合に資本がそこに集まると、次に行うのは「より売れる製品のパクリ」である可能性は高い。
なぜなら、革新的なアイデアや製品を出せなかった人や組織がパクリで経済的に成功したならば、合理的に考えて次も同じ事をする可能性は高いだろう。そこにある理念とは「経済性の論理」である。売れるからパクり、それまでに蓄積されたノウハウやその製品の人気にフリーライドするという事が事業モデルになっていくのである。
人気の服があって、それをパクって安く作った場合、パクリ元よりも価格の面で優れている。なぜなら研究開発に当たる部分がぽっかりと抜けているからである。
経済的なメリットを優先し続けるならば、人気のものをパクリ続けて元よりも安く、またこだわりの部分をスポイルして体面が整う程度のものにダウングレードする。これでネタ元よりもパッと見で同じような安くて大量生産可能な"良い"ものが作れるに違いない。
以上より、パクリによるフリーライドは経済的なメリットを享受するにはうってつけである。一見、資本主義社会においては正しいのでは無いか。
だが、この考えに対して私は大きな文化的デメリットを感じる。
それは、その製品群には背景が見えないので、文化を変化させる強い力が無いのではないか、という点である。
人は何かにつけて物語を欲する傾向がある。成功者の本が売れているのは「そこには成功に至るまでのストーリーがある」と信じたいからだ。
また、人だけでなく組織にもストーリーは必要だ。会社理念を作り上げることで社員も含めて物語を感じ、その歴史の末に出来た製品を手にするというのは大きな付加価値になる。
その中には理念の為に経済性を弱めて作り上げた製品やアイデアもある。だが、それこそにその会社の本質が詰まっている。そこには経済性というノイズを削って作り上げたという希少性があるからだ。
だが、もしパクリ続けて「今売れている製品」のみを作り続けている人や会社には、そういったストーリーは作り上げられない。あえて出すのであれば「顧客が求めているから作る」という物語だろう。
だからこそ、製品自体に過剰な説明を付けなければならない。そこには「どうしても欲しい」と考える為のストーリーや背景が失われている事で、自然と購買者が感じうる魅力、パワーが無いのである。
そして、ストーリーが欠落したものからは「作品同士の繋がり」が見えなくなる可能性があるという点である。
企業にも理念があり、個々人にも理念はある。それらが作る製品には一つ芯が通っている。
この芯はユーザーに蓄積され、「この会社はこういうサービスや製品を作る」という印象を作る。
環境を守りつつ快適な生活を守る。
自由と既存の表現への挑戦を行う。
世界に誰もがアクセスする事が出来、様々な不均衡を解消する。
それらは困難にも見える内容だが、わずかでも達成することで革新性に繋がり、世界をより強い方向へ変えていく。
パクリを続ける限り、この概念的な志向が行えず、経済的な優位性のみの印象しか残らなくなる。つまり人に響くストーリーは現れてこない。
もちろん経済的優位性に惹かれて購入する人もいる。だが、それはその製品自体ではなく「書かれている値段と説明された価値との差分」を評価した結果ではないか。故に絶対ではなく相対の評価になる。唯一のものにはなれないのである。
時代を進歩させるものというのは経済だけではない。むしろ、非経済的なこだわりから生まれるものが時代を変える事も多い。
なので
「この製品は、他の高級品と同じ素材を使い、作り方もこだわりの工場を使っています。デザインも現代の人気になっている形をそのまま作り上げています。」
よりも長く残るのは
「この製品は、もしアメリカントラッドが日本ではなくイギリスで作られていたならどうなっていたか、現状の文化の再解釈を行って作ったものです。」
の方がそのジャンルの愛好者には響くのではないだろうか。なぜなら文化を変化させうる力をもたらす期待があるからだ。
ただ、経済性が優先される世の中においてはジャンルの衰退よりも個人の価値取得が優先される。そうなると経済的優位性が立ち現れて、それが「正解」となってしまう恐れがある。
「安くて高級なものと同じだからコスパが良い。そしてこの値段ならトレンドが変わったら廃棄しても損が少ない。」
背景が失われ、そのジャンル内での正解が固まってしまうと、その中のプレイヤーは様々な要素が切り捨てられたより確実な正解を求めるようになる。つまり、「間違いですら無い意見しか言えない」ような状態になり、間違いから広がる進歩が無くなっていく。
その一つに単一のトレンドが安く買えるという回答である。これがジャンルの衰退に繋がっている。
文化は硬直化すべきではなく、進歩ないし変化していくべきものである。これらのパクリに対する文化的サーキットブレーカーは、知らず知らずの内に衰退する事を防ぐ役割を担っているのかもしれない。
以上より、パクリを悪としなければジャンルは「コスパが正解」文化となり、経済優位性が前面に出るとそのジャンル自体が衰退する為、炎上とはそれらを事前に何となく察知して起こされるのではないかという最近思ったことでした。