2025年10月20日月曜日

「オシャレ」の流行は人々を幸せにするのか

          


僕は特段オシャレではなく、ファッションに興味があって雑誌を読んだりネットの情報を調べたりしながら、試行錯誤をしている程度なのだけれど、ここ何年かくらいでよく見かけるようになった「~はトレンド」「~はダサい」という趣旨の動画や記事。
これらを見ていると、徐々に主張の仕方が過激になっているように思うと共に、この流れの先には大多数の不幸があるのではないか、と感じた。




「オシャレ」の流行が人々を幸せにするのかについて言えば、ミクロの視点では一時的に人を幸せにする可能性はある。

個人の魅力を引き出したり、はたまた新たな自分を見つけたりできて、結果的に自信に繋がる事もある。加えて服を買ったときの嬉しさがある。なんだかんだで散財は楽しい。

こんな感じで要素を分解すれば、オシャレをする幸せの要素は色々とあるように思う。


では、マクロな視点ではどうか。

「オシャレである」という状態は「オシャレは差別化である」とよく言われることから相対的なものである。つまり、「オシャレでない」大多数がいることで存在出来る。ここまでは自然な状況であり、”区別”として「オシャレ」な少数の人と「オシャレ」でない大多数の人がいるだけである。

しかし、「オシャレでない」ことが「悪い事」「損である」とされる状況においては、大多数の人々もそのレースに参加するよう急かされる事になる。

「こんな服装してる人はセンスがない」「この服装は時代遅れでカッコ悪い」

服装が個人の印象へより大きく影響してくることになる。そうなると「大多数に対して"オシャレである"ことを要求される」状況が発生する。こうなると区別ではなく”差別”の性質を持つようになる。

これは果たして全体にとって幸福なのか。


そもそもなにが「オシャレ」なのかという事も判断が難しい。

オシャレであるかは個人の嗜好によって変化する。アメカジ、モード、きれいめ、トラッド、パンクなど色々なジャンルの視点があり、それらには個人の経験からくる好みも含まれている。

つまり、ある人にとってはダサくても、ある人にとっては素晴らしいと評価が変わる可能性がある。それゆえ「オシャレ」であるということを論理的に説明しようとしても、完全には説明できない。

インフルエンサーがこぞって「オシャレの法則」のようなものを公開し、それに沿ってコーディネートを紹介しているが、その理論を辿っても「ダサい」と言われるコーデは存在している。

また、本当に論理的に全て説明が付くのであれば時代を超えて絶対的にオシャレな服装が存在しうることになるが、現状はそんなものは無いように感じる。それはその人自身の外面内面含めた特徴が大きく影響することもあり、そう簡単には纏められないものであるし、そもそも色彩やシルエットなどの理論を超えたところにカッコよさがある、という場合もある。これを決めるのも法則ではなく主観的な意見である。

また、トレンドというものが個々のデザイナー(この場合はラグジュアリーブランドを初めとした有名ブランド?)の感性に委ねられているが故に、十分に合理的な理解ができないという点もある。

これらの点について無理に筋を通そうとすると、説明に齟齬をきたす。

例を挙げれば、以前はトレンドとして現れたスキニーパンツが、脚長効果をもたらすからと論理的にスタイルを補正するという意味合いと併せて持て囃されたが、今ではダサいファッションアイテムの筆頭となっている。そして現在はワイドパンツが足のシルエットと長さを隠すので脚長に見えるという、真逆のアイテムが同じ効果を持ち、かつそちらの方が今は優れているという説明がされていた。

体型補正という絶対的な基準をもってしてもオシャレな状態を説明しきれないのである。

要するに基本的にファッションは主観的かつ変化し続ける事が前提であり、絶対的というものは無いという事なのだろう。


でも、絶対的ではないファッションにおいて、ある服装を「ダサい」と公の場で表現するのはなぜなのだろうか。

そもそも「~はダサい」は個人の状況や嗜好を無視した上で言われる事が多い。

もちろん、ある集団が提唱する「オシャレ」になりたくてもうまくいかない人もいる。

しかし、例えば子供がいるので汚れてしまうと困るような良い服は着られない。昔から憧れだったブランドをようやく着れるようになった。着心地を優先して生活のストレスを軽減することに重点を置いている、などなど色々な理由が個人にはあると思う。

そんな中、総じてそういった「世間の評価をそれほど気にしていない人々」や「その服が好きで着ている人々」がやり玉に挙げられることになる。

それらの人々を揶揄して「この人たちはダサいです。オシャレになりたいならこういう服を着ましょう。」というのは藁人形論法のようなものであり、インフルエンサーの言う「オシャレ」をその人々は求めて居ないのに、そのファッションの一要素を切り取り、本人の意図とは違う解釈を行って「ダサい」と示しているのだ。

これらはマーケティングの手法としてであれば正しい。競争を加速させた上で世の中が自分たちの有利な方にコントロール出来るのであれば大変有効な手段である。保有しているものにより価値がつき、それを元に自分に有利なゲームを展開できるからだ。


結論として、「大多数がオシャレをすることで幸せになる」というのはミクロな視点かつ短期的には可能だが、長期的に見ると所属している環境をより厳しいものにし、その上でその人自身が厳しい環境に巻き込まれてしまう可能性がありうる。

マクロの視点でも、相対的に不幸な人たちが多く生まれる形となる。より競争が進み、ルッキズムの流れが激しくなることで今までよりも「普通であるための条件」が増えることになるからだ。これは実際の出費もそうだし、世間の評価も同様である。個人の幸福の為にと新たな価値観を推していった結果、大多数が不幸になるという皮肉な結果になるのではないかと思う。

更に言えば、大多数の人々がオシャレである必要があるのかは疑問である。

オシャレとはあくまで趣味の一つで楽しむものなので、参加するかしないかは個人が決めることであり、やっていないから駄目だというものでも無い。それを半ば強制参加のゲームにしてしまうことは、趣味の範囲から逸脱したものになってしまう。これは趣味本来の楽しさにも関わってくる。

「日本全体を幸せにする為に、ダンスを普及させたい。」という人がいたとして、広まり始めた後に「ダンスが下手な人はダサいです。ダンスを学ぶためにここのスクールに行きましょう。」と言った結果、ダンス人口が増えた場合は果たしてダンスを楽しんでいる幸せな人が増えたと言えるのだろうか。

最後に、僕はファッションについては一般的な社会生活において最低限のTPO(冠婚葬祭や会社の規範程度の)をわきまえていれば十分であると思う。

そのTPOのラインを自分たちの有利な方へ、よりコストがかかる方に動かすことは、マナー講師が新しいマナーを作るようなものであり、あまりカッコが良い事ではないように感じる。

好きなファッションを楽しんでいたり、ファッションにとらわれていない人を藁人形にし、「これはダサい」と言って批判するような「冷笑的なオシャレ」流行の先に、大多数の人々の幸せはあるのだろうか。




そういう事を言いつつも、なんか微妙に流行ってそうだと思ったクラシックカープリントのTシャツを(普通にダサかっこいいとも思ったので・・・)買っている自分がいるのも人間の複雑さの現れという事でひとつお願いします・・・。

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