2026年9月5日土曜日

死の恐怖のプロセスと生の扱い方についてのメモ

 最近考えたことのメモ。


人が死を避けるのは、実は後天的なものではないかと思った。

人に危険な何かが迫った時にそれを回避する行動を反射的に取るが、これを自分自身が認識して解釈して、「自分は死にたくないと考えているんだ」という認識が出来上がるのでは。

例えば、赤ちゃんの頃は自分自身を客観的に見ることが出来ないので、死を恐れるというよりは脊髄反射で危機に対して動いていて、後に自己を認識してメタ視点を獲得した後に「自分という個体が危険に対して抵抗しているので、おそらく死を恐れているのでは」という考え方が固定化していくと言えるんじゃないか。


思考実験として「虫は死を恐れるのか」を考えてみる。

自分自身を認識出来ない可能性のある虫が、危機に対して「死にたくない」と考えられるか。

外から見ると「脊髄反射で危険を避ける」と「死を恐れて危険を避ける」は同じに見えるが、結果に至るプロセスが逆になっている。思考から行動か、行動から思考か。


このプロセスはほぼ一体のものではあるけど、逆転している事で、もしかしたら行動から死を避ける心理を変えられる可能性がある。死ぬ可能性があるけど進んで行動出来る。ここから死への恐怖について個人差があるという事につながる。幼い頃から死ぬことへの想像を深くする程、死を恐れるプロセスが強固になる。その逆もしかり。

なので、個人の幸福(という曖昧な観点)から考えると、死の認識を深める際に死の恐怖は後天的であると認識しておくことが重要ではないか。


以上の思考の上で自然な「生」の扱い方も考えてみる。

「生」と「死」はそもそも対称的な質量を持ったものではなく、死が大半を覆った上で生が僅かな塊として存在しているという考え方。例えると、海を「死」そのものとし、「生」はそこで一時的に偶然集まった小さな有機物の粒のようなものである。

なので、自然は「生」が根底にあると考えるのではなく、「死」を基礎とした生命への眼差しという一見矛盾した考え方も出来るように思う。

これは、生命の一瞬一瞬が偶然にそこに溜まったものであり、本来の自然から反した存在であるとも言える。だからこそ、死は当たり前にそこにあり、特別なものではないという考えになる。

この考え方は、生に執着しない事で「自然における生命のあり方に反しない生き方」が出来るんじゃないかと思っている。ただし、これは「だから生に執着しないでさっさと死ぬべきだ!」じゃなくて「生を少し手放すと生きやすくなる」んじゃないかという推測である。


とりあえず今のところはこんな感じです。

なんか核心には至れないけど、多少意識の転換は出来るのかなーと思いつつ、今後も考えていきたいテーマだと思ってます。

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