2026年9月7日月曜日

ダビスタの思い出

 小学生の頃、ダビスタにハマっていた。競馬がどういうものかはあまり良くわかっていなかったが、それでもなんとなく強い馬を作るためにひたすら続けていた。新しく馬を作ってはレースを見守り、また新しく馬を作り。その繰り返しがただただ楽しかった。

そのうち、育成の楽しみはパワプロのサクセスモードに移ってしまい、プレイすることは無くなっていった。



それから十数年、成人して友人と宅飲みをした翌朝、ふとゲームがしたくなって何となくダビスタを始めた。当時の記憶を思い出しながら配合をどうするかを考えていた。

少しして友人も起きてきた。彼も競馬には詳しくないが、これとこれを配合してみたら強いんじゃない、という調子で一緒にゲームを進めていく。

しばらく忘れていたゲームを友人とやる感覚が懐かしく楽しかった。たとえ強い馬が生まれなくても共にプレイしているだけで楽しいのだ。



そして最初の1頭が生まれ、名前を決める。

「名前どうしようか。」

友人と検討を重ね、名前が決まった。







ガマンジル。



友人と共に初めてやったダビスタで、ガマンジル号が誕生した瞬間である。


ガマンジルはすくすくと育ち、ヤンチャだのスピードが早そうだの言われつつ、あっという間に厩舎デビューとなった。

しかしこのガマンジル、足は早いが堪えることが苦手らしく、結構な頻度でレース後半に失速して画面外に消えていくという早漏劇場型の競走馬だった。

なので、手に汗握る戦いを毎試合繰り広げており、特に後半の直線では二人で懸命に応援をしていた。


「ガマンジル!ガマンジル!垂れるな!いけ!!」

「ガマンジル!ガマンジル!ガマンジル!あーーーー!!!(失速)」


結局、G3に1勝したところで能力の限界となり、以降は引退まで重賞を勝つことはなかった。

しかし、彼は僕らに大切なことを教えてくれた。







大人になっても下ネタで全然盛り上がれる。

ちなみにこの後も当牧場からは続々と競走馬が排出されていき、差し馬のカリ、先行型のウラスジと続いていくことになる。

宅飲み翌日のダビスタはなかなかオススメ。

2026年9月5日土曜日

死の恐怖のプロセスと生の扱い方についてのメモ

 最近考えたことのメモ。


人が死を避けるのは、実は後天的なものではないかと思った。

人に危険な何かが迫った時にそれを回避する行動を反射的に取るが、これを自分自身が認識して解釈して、「自分は死にたくないと考えているんだ」という認識が出来上がるのでは。

例えば、赤ちゃんの頃は自分自身を客観的に見ることが出来ないので、死を恐れるというよりは脊髄反射で危機に対して動いていて、後に自己を認識してメタ視点を獲得した後に「自分という個体が危険に対して抵抗しているので、おそらく死を恐れているのでは」という考え方が固定化していくと言えるんじゃないか。


思考実験として「虫は死を恐れるのか」を考えてみる。

自分自身を認識出来ない可能性のある虫が、危機に対して「死にたくない」と考えられるか。

外から見ると「脊髄反射で危険を避ける」と「死を恐れて危険を避ける」は同じに見えるが、結果に至るプロセスが逆になっている。思考から行動か、行動から思考か。


このプロセスはほぼ一体のものではあるけど、逆転している事で、もしかしたら行動から死を避ける心理を変えられる可能性がある。死ぬ可能性があるけど進んで行動出来る。ここから死への恐怖について個人差があるという事につながる。幼い頃から死ぬことへの想像を深くする程、死を恐れるプロセスが強固になる。その逆もしかり。

なので、個人の幸福(という曖昧な観点)から考えると、死の認識を深める際に死の恐怖は後天的であると認識しておくことが重要ではないか。


以上の思考の上で自然な「生」の扱い方も考えてみる。

「生」と「死」はそもそも対称的な質量を持ったものではなく、死が大半を覆った上で生が僅かな塊として存在しているという考え方。例えると、海を「死」そのものとし、「生」はそこで一時的に偶然集まった小さな有機物の粒のようなものである。

なので、自然は「生」が根底にあると考えるのではなく、「死」を基礎とした生命への眼差しという一見矛盾した考え方も出来るように思う。

これは、生命の一瞬一瞬が偶然にそこに溜まったものであり、本来の自然から反した存在であるとも言える。だからこそ、死は当たり前にそこにあり、特別なものではないという考えになる。

この考え方は、生に執着しない事で「自然における生命のあり方に反しない生き方」が出来るんじゃないかと思っている。ただし、これは「だから生に執着しないでさっさと死ぬべきだ!」じゃなくて「生を少し手放すと生きやすくなる」んじゃないかという推測である。


とりあえず今のところはこんな感じです。

なんか核心には至れないけど、多少意識の転換は出来るのかなーと思いつつ、今後も考えていきたいテーマだと思ってます。

2026年9月2日水曜日

不安駆動の世の中

 現代、過去にかかわらず、社会は不安を根底に動いている気がしている。不安は需要を生み出し、それは行動における答えとなる事も多い。

現代における不安の身近な例は社会的な孤立ではないか。

元々人間関係は流動的なものであるが、仕事や趣味のグループというのは昔から存在しており、一時的に生存確率の向上と共に孤独という不安から逃れる術として発生したものである。SNSの発達もこうした不安から逃れたいという願望から利用が加速した側面も考えられうる。

では、SNSで24時間繋がりを保つことが出来る現代においても孤立不安が発生しているのは何故か。

それは、SNSでの関係性がベースになるほどに一般化した為、より深い関係構築でなければ幸福を感じられなくなったのではないか。幸福に大して麻痺している状態である。

例えば新たな環境に身を置く場合に最初は不安を覚えるものであるが、数年もすればそれなりに安心感を得るものである。しかし、期間が長くなればなるほどその状況に不満を覚えるようになる。その関係性をベースに幸福度を考えてしまい、麻痺している状態だ。

マズローの五段階欲求説では段階的に欲求が満たされることでより高次の欲求が生まれるとされているが、所属と愛の欲求が満たされても生理的欲求や安全の欲求が強くなるケースや、逆に安全への欲求を脅かすような挑戦を行うケースはある。

会社でもそれなりのポジションに落ち着いたと思ったら、リスクの高い転職をして人間関係や社会的なポジションを不安定にしたり、危険なスポーツなどに挑戦してみたりするのはよく聞く話だ。

むしろ欲求には階層的な優先順位があるというより、複数の欲求が常に並存し、その強度が状況によって変化するのではないか。

つまり、実は人間は挑戦という名の不安を求めている。安定した状態を保てるように出来ていない可能性がある。


ここで一つ内容を狭めた仮説を置いてみる。

「現代の転職市場が盛り上がっている」のは、「SNSの普及によって視野が広がり、より高いキャリアの環境を見ることが出来るようになったので、より高い安定を求めて動いている」からではなく、「SNSにより所属の欲求が一定のレベルで安定するようになった事で、他の欲求の不確実化を求めるようになり、その一角が転職というリスク行動である」というものだ。

これは「より良い環境へと移る」ということではなく、現在の安定的な状況に対して逆に不確実性を欲するようになり、それを合理的な回答とする為に「より良い環境へ移る為」という風に自ら変換し、行動を起こしているのではないかという可能性の話である。

リクルート業界の広告では「より自分の実力を発揮できる環境に」という謳い文句が殊更に使われている。これは挑戦であるわけだから、本来は安定を求めているのであれば転職を誘引する言葉にはならないはずである。なので、謳い文句になっているキャリアアップという言葉は実は「不確実(=不安)」という事の変換された形となっているのではないか。

このような安定化させない人間自身の仕組みが、世の中に差異を生み、多様性を高くして人類全体の生存の確率を高めている。つまり世の中が不安定であるというのは全体で見れば競争が行われているという事なので、正常な環境である証拠であるとも言える。

最近の愛用品など(利用予定も含めて)

ここ2~3年で服が好きになり、色々試している内にお気に入りの物が見えてきたので軽く紹介したいと思います。 1.L.L.BEANのトートバッグ(Mサイズ) 「やっぱりトートバッグは定番の物がほしいなぁ」と思い新品で購入。 買った当初はたまに使うかなー程度に思っていたが、とり...