2026年5月30日土曜日

アーティストが政治的発言で炎上する事への考察

歌手などが政治的発言をする事が世間で批判される。それは世界的な視点で見ればおかしいとあるアーティストが発言していた。


この発言についていくつか疑問点があった。


・そもそもアーティストの政治的発言は公権力に対する現状への反対意見と考えられるが、その内容は大抵具体的な改善案ではなく、ただ現状に対する批判と責任は公権力などの権力者にあるという事を言うだけである場合が多い。

それは具体的な改善案ではない時点で建設的な意見になりづらく、感情に身を任せた個人に対する建設的な議論を放棄した攻撃的なエンターテインメントに堕してしまっている可能性があるのではないか。


別に政治に対する批判をするだけであれば良い。個々人が自身の生活に基づいて改善してほしいという要望を出すのは民主主義国家において国民の権利と言える。

だが、あるアーティストが政治的発言をする時、政治を知らないファンがその内容を真っ直ぐに受け取ってしまったらどうか。

芸術は感情駆動であるケースが大半で、特に音楽は集団心理により感情を動かすという側面もある。

なので、アーティストのファンに一定の知識(実情の調査方法など)があったとしても、そのアーティストを盲信してしまっていると、ファンは実際に行われている公権力側の行いを調べずに政治家等を悪と断定してしまい、感情を元に実情と違う批判を繰り返してしまうといった場合は十分考えられる。

そもそもアーティストは政治家より政治に詳しいと考えられる根拠は薄い。

実際の政治の駆け引きからも外れているわけだが、実情も知らないのに政治批判を行うのは高度な知的活動と言えるのか。


・世界的な視点で見ればアーティストが政治的発言をするのは普通というのは、どの世界では一般的で、かつ批判されないのかが不明瞭である。

一般的であるというのは日常で冗談程度でも言われているというニュアンスもあると思うが、むしろ「炎上」するほど真に受けて対応している方が「誠実」であり正しいという視点もある。

批判は逆に考えれば注意であり、反対意見の表明である。

むしろその状況こそが「高度な社会の反応」とも言えるのではないか。

そして「世界的な視点で見れば普通である」のであれば、「その世界的な国々」の政治は真っ当であり、他国よりも正常な政治が行われているという事になる。

だが、どの国でも汚職は起こっているし、国民も不満を口にしている。

「世界的には」というユートピアを語るのは良いが、日本以外の「世界的にも標準」が正しいと言える根拠が薄いように思う。


・個々人の判断という前提で、おかしな発言をした人に対する個々人の「注意」を「炎上」と捉えてしまっていないか。(それが炎上そのものではあるが・・・)

炎上が発生するには個々の人物が発言をした人物に対して「それはおかしい」と思うことでその反論を書き、その量が多い場合にそう判断されると思われる。

その中には炎上の流れに乗っかり、単に個人的に嫌いだからと誹謗中傷を書く人はいると思うが、あるアーティストが政治的発言をした結果、アーティストのファンがその発言に乗っかって感情的に政権批判をする事も考えられる(特に音楽や文学などの感情を動かす事を商売としているものは)。

つまり、アーティスト側も批判対象に対する炎上の種を撒いているのだから、お互いに同じような行動をしているのではないか。

このお互いに行われている行為について、片方の正当性を証明する手段はあるのだろうか。


・そもそも音楽だから、文学だからと芸術的な表現に乗せれば以上のような批判が社会的に許されるという考えがおかしいのではないか。

芸術性という点を排除して考えれば、人が大勢いる街中で大声で何かに対する批判を叫ぶ人であり、それを受け取った人の評価の台に載せられるのは当然の結果である。

もし、炎上を忌避するのであれば大勢の前で政治的発言をすべきではないという当然の内容となってしまう。



以上より、有名人が政治的発言をすることの是非、という切り取り方は前提からおかしい。

正しくは「ある人が何かに対する批判を大声で言うか、小さい声で言うかの問題」である。

聞こえた人が肯定的に捉えれば同意、もしくはその人に乗っかって相手を批判するだろうし、否定的に捉えられれば発言者は反感を持たれたり、度が過ぎていると思われれば注意もしくは非難される。

それはアーティストでなくて一般人でも同じである。

何かしら発言に影響力がある人物と判断されれば一般人でも「炎上」は起こりうる。


もし、炎上という事を起こしたくないのであれば人々から「無視」されなくてはならない。

つまり、その人物は世間に対して影響を与えない人物と判断されている事になる。

でも、アーティストはそれが本望なのかと言われれば、違うのではないだろうか。




そんな感じだけど、実際のところ有名人という立場であるとなかなか難しい問題ではあるなと思う。

顔が知られると自然とそういう風になるので、それが嫌であれば自分への動線を切るしか無い。

そういうのを有名税だ、とか言うと下衆な言葉だなぁと感じてしまうけど、発言に感想を持たれてる時点でその人はある意味で社会的に恵まれているようには思う。大勢に反感を持たれているなら相手には多少なりとも届いているだろうし・・・。

2026年5月24日日曜日

星の瞬き

高校1年になり、通う学校が近くなった事で自転車での通学が可能となった。
電車とバスを使うルートもあったが、大きく迂回しなければならず2倍以上の時間を要するので馬鹿馬鹿しいと思い、迷わずママチャリを購入した。

通学の初めの頃はルートを一発で覚えられるだろうと思っていたが、意外と物覚えが悪い自分に少しがっかりした。途中が細かく入り組んだ場所に入るというのもあったが、いつの間にか見覚えのない道に出ることもあったし、1週間ほどかけてようやく問題なく行き帰り出来るようになった。

いざ自転車通学を始めてみると、なんでもない周りの風景を覚えていることに気がついた。
学校近くの赤レンガの外壁の家はガーデニングが趣味らしく、コンクリートの塀のなかには所狭しと様々なプランターが置かれている。
その中の一種が変わっただけでも、なんとなく違和感を感じて気がついたこともあった。
他にも、この家に知らない車が停まっていると新車を買ったのか、住人が変わったのか、などと思考の片隅で考えていたりもしていた。

その中でも印象に残っていたのが、かなり古いように見えるグレーの外装の軽量鉄骨のアパートの一室だった。
4部屋しかないこじんまりした佇まいのその一角に、錆びついた自転車や枯れた朝顔のプランター、原色の子供用の手押し車、スケボーの板などの雑多なモノが玄関ドアの脇にゴチャッと置かれていた。
そのどれもが使われているような形跡はなく、遠目でもホコリだらけなのがわかった。
ちょうど狭い道のカープを抜けた先の視界に入ってくることもあり、意識せずともなんとなく印象にのこっていた。
夕方の下校時間には部屋の明かりが付いていることもあり、物置になっているわけでもなく、おそらく誰かが生活している人がいるのもわかった。

しかし、いつ通ってもそこに置かれているものは変わらず、自転車すらも位置が変わらずに置かれていた。
僕はその辺りを通る時に、どんな人が住んでいるのだろうと想像を巡らせたこともあった。
あまり身なりに気を使っていない、髪の毛や髭を伸ばしきりにしてるような社会性が薄くてどこか影のある人が思い浮かんだ。

初秋を超えても暑かったはずが、10月を超えて急に風が冷たくなり手袋が必要だと思った。
衣装ケースへ無理に冬物を詰め込んであり、開けて探るだけでも億劫ではあるが、通学の都度指がかじかんでいては仕方がないので、帰ったらぼちぼちやろうと考えていた時、丁度例のアパート前に差し掛かった。

いつもと空気が明らかに違った。
そこにはパトカーが2台、ランプを点灯させたまま駐車しており、件の部屋が開いてなかに警察官が立ち入っているようだった。
平日の夕方だからだろうか、ぱっと見ただけでも見物人は少なく、1人の老人男性と2名の主婦が遠巻きに眺めては何かを話し合っている。

僕は気にはなったが、同じように野次馬になりたくないという倫理観のようなものと、そこまで興味を持つべきなのか、と自問自答をした結果、少しスピードを緩める程度で通過していた。

それから数カ月の間、部屋の前には雑多なモノが置かれ続けた。
あの瞬間を目撃しなければ、おそらくまだそこに住み続けていると思ってしまうほど、変わっていない。

ある日、夕飯時に食卓で流れていたバラエティ番組で、今見ている星は500〜600年前のもので、今でもその数が増えているという雑学が語られていた。
その時は何となくで聞き流していたが、それなら消えていく星々もあるのではないかと思った。
もし、大昔から見えている星が増え続けているなら、今頃は夜空全体が隙間無く真っ白になるくらいになってしまうのではないか。
その中には人知れず他の星々にぶつかり、崩れてしまった星もあるだろう。
そして既にそのものは無くなっているのに、星の光というその痕跡が残り続けている為にまだ気付かれずにいる。

ふと、あの部屋の住人の事を思い出した。
室内で孤独死だったのだろうか。そうだとすれば、なにがきっかけで発見されたのだろう。
あの部屋で、部屋の明かりが無くなった後も雑多なモノがある限り、そこに住む人が行き続けているような感覚は、世間から離れた場所でひっそりと瞬いている星にも思えた。

件の部屋は、秋から春まで季節が変わっても人気が無いまま、部屋の明かりが付くことはなかった。

それから、僕が3年になり春風の中を自転車で走っている時、紺色の傘が例の部屋の前に置かれているのに気がついた。
玄関ドアも、今までの赤茶色の木目ではなく、一面青くなっていた。
元の住人の影を振り切るように、痕跡を消そうとしているのが感じられた。

僕はブレザーの内ポケットからスマホを取り出して時間を確認すると、少し立ち漕ぎをして勢いをつけてカーブを抜けた。

2026年5月3日日曜日

アルバイターぽせさん

バイトを始めた。ダブルワークとして期限を決めてしばらくは続けていく感じ。

これまでの仕事の感触から、やっぱり対人メインの仕事は向かないなぁとつくづく思う。とはいえ特別な専門知識があるわけでもないので転職するにしても似たような仕事になりそうでなかなかに大変。

最近は友人に相談したり、雑貨屋古着屋を巡ったりすることも増えた。新しいソーイング作品のヒントになるようなものもあり楽しい。

あと、クラフトビールの店をいくつか見つけたので時々散歩ついでに飲んだりする。食事は最小限。

読書は哲学のハイデガー以降を読んでいる。実存主義を超克した?道筋が気になる所。

その中で人が「所有」することとは何だろうという疑問が湧いて、片っ端から本を漁っている。もしかしたら所有欲、製作欲に関するヒントが出てくるかもしれない。


お掃除ロボットに「感情」はあるのか!?

「あるのか!?」と言われても「 そこに無ければ無いですね 」で終わりそうな話だけど、ちょっとだけ考えてみる。 感情とは内外問わずある刺激により引き起こされる脳内物質の変化である。 ただ、それだけでは他者から感情とは判断されない。なんなら自身も気付かない可能性がある。 それは外的に...