2026年8月2日日曜日

清掃業務休憩室にて

 職場の袴田さんが辞めるらしい、と同じくパートの年配の方から聞いた。

御年75を超える袴田さんは以前から腰が痛いと言って清掃業務中でも小休止を取りがちだったので、気になってはいたけど急な話だなと思った。

先日も少し離れたオフィスビルの一角の清掃に行くのに、しばらく歩いてはフェンスに座り込んだりして休憩を取っていて、夏場だし年齢も考えると仕方ないよな、と思っていた。

でも清掃業務はきっちりこなしていたし、少し休憩が増えた所で余裕はたっぷりあったから問題ではなかった。

オフィスビルの除草やゴミ拾いが終わって帰ろうとしたら袴田さんは「私はゆっくり行くから」と言ってゆっくり歩き出した。

「いえ、僕もついてきますよ」

「ううん、大丈夫だから。」足を擦りながら言った。

「足と腰がね。手術でボルト入れてるから。膝に。」

ふぅと息を吐くと

「早く歩けなくて、困っちゃうわよね。」

僕は「そうだったんですか」と続け、少しそこで話をして、申し訳ないが先に行くことにした。

そこで待つことで余計に気を使わせそうだと思ったからだ。

神社へ向かう参道が帰り道になっている。僕は時々後ろを振り返り、袴田さんが見える限りは確認しながら歩いた。

袴田さんは道端に積まれた石垣に腰を下ろして、向かい側を見ている。

この暑さだから、熱中症には気をつけたほうがいいよな。

そう思いつつ、わざわざ言うことでも無いので僕はそのまま職場へ向かう為に十字路を曲がった。


そもそも清掃業自体、自分よりも年上の人しか居ないし、80代の人がリーダーのような形で取り仕切っている現場で平均年齢もそれなりに高い。

話せば体のどこかには不調なところがあって、休憩中は病気とか病院とか寝れないだとか、そんな話が飛び交っている。

そんな面々だから、度々急病で休みとかがあった。でも人員がそれなりにいるので負担はほとんどなく、「ああ、それぐらいなら」と、追加される業務にもすぐに慣れていった。

休憩時間になると、僕は部屋の隅っこで文庫本の「善の研究」を読んで、たまに聞き耳を立てて周りの話を追っていたりもした。

時々、ゴシップの話をしている時は、グッと喉に力が入る気がして、そのまま本に意識を無理に持っていこうとする。そんな時は大抵、頭の中に泡立つように言葉が浮かんでくる。それは確かな話なんですか。現実的じゃない気がします。噂程度で決めつけるのは違うと思います。

ふぅ、と息を小さく吐いて、頭の中の声が落ち着くように本に目線を移した。

娯楽なんだ、これは。と繰り返し考える。


鷹野さんがスマホを持ちながらシフト表を覗く。

「大塚さんて辞めたの?」

あまり興味が無さそうな、相変わらず感情の入っていない声で話す。

そういえば、先月パートで入った大塚さんは若かった。僕より2~3歳上だったと聞いた。平均年齢から考えれば十分若手だ。一生懸命、袴田さんの後について仕事を学ぼうとしていた。相槌の「はいっ」が極力気を使ったようなこぢんまりした発音だったのを覚えている。

2回ほど午前中の業務で見かけたが、それから見なくなった。

木崎さんがふん、と鼻息をすると「いや、別の部署に行ったらしいよ。別のビルの。」と答えた。

楠木さんも話に乗っかってきていた。

「仕事が合わんかったんじゃない?ちょっとさ、気が弱いっちゅうかね。」

「ああ、へえ。」

相変わらず横でアルバイト同士が話してるのを聞きながら、目線は本に落としている。

「袴田さんとか、山野井さんがかわいがってたのにね。」

僕は現場での大塚さんは見ていないが、掃除用具倉庫の準備中に所在なさげな感じだけは伝わってきていて、

どこかで長続きしない予感がしていた。


会話が2~3週すると、いつのまにか話題はメジャーリーグの話になっていった。

「瀬谷くんは、野球とか見ないの?」

突然話が振られた。僕は本から木崎さんに目を向ける。

「ええと、たまにyoutubeとかで昔の選手の動画とかは見ますね。上原とか松坂とか。」

「世代だったよな、そういや。」

実際は世代ではないが、そうですねぇ、と微笑んで返事をする。

「でも、テレビが部屋に無いので今のニュースには疎いんですよ」

「テレビが無いの?暇じゃない?」

テレビを見てると不安になる、なんて言えないので「youtubeで事足りちゃってますね」と自嘲気味に笑ってみせた。

「へぇ~・・・俺らのころは・・・今もそうなんだけど、テレビはずっと流してんなァ。ずっと。」

驚いてる木崎さんに話しかける。

「まあ、そうですね。youtubeも飽きてきてはいるんで・・・あった方がいいかもですね。」

「そうだよなぁ。やっぱりねぇ。」

木崎さんは満足げに話すと、元のメンツでの会話に話を戻していった。

僕は、本に目線を戻したが、どこまで読んだかがすぐにわからなくて、数ページ戻したり、先を読んでみたりしつつ休憩時間を過ごした。



昼前の清掃が始まり、各種ホワイトボードに振り分けられた場所へ清掃用具を持って散っていった。

僕は休憩室がある廊下とトイレの清掃をする。短時間なので、そこまで大変なことはない。30分くらいで終わらせて、あとは時間を潰せる業務を探す。

廊下を付け替え式モップで拭いていく。ぐるっと1週したら、今度は拭ききれない真ん中から拭き始める。

途中に、小さな黒い筋汚れが見えた。ヒールマークといって、靴の底をこすったり、運搬かご用のゴムタイヤによって床に付くことがある。

僕はモップでこすり、落ちないのを確認すると先の方の清掃を続けた。

一通り拭き終わって、モップのクロス部分を取り外して見てみると、結構なホコリがべったりとついていた。腰に巻き付けてあるウェストバッグに外したクロスを入れて、トイレ用具を倉庫から取り出して掃除を始めた。


「ちょっと、瀬谷くん。いる?」

ふいにトイレのドアの外から呼ばれたので、便器の掃除の手を止めて外に出た。

出た先には袴田さんが立っていた。

「ここ、ヒールマークついてるでしょ。」

指をさした箇所を見ると、確かに硬いゴムを引きずったような黒い跡が残っている。拭いただけでは取れないくらいベタッとついていた。

「こういうところが大事だから。結構見落としちゃうけど。」

袴田さんが持ってきたモップをおいて、足で踏みつけてギュッギュッとこすった。

足を離してみると、床にヒールマークは残っていなかった。

「こういうのさ、見てくるからね。」

はは、と苦笑いを作ると、袴田さんの顔は真剣だった。

「はい、すいません。」

「うん。それじゃ私は倉庫行くから。」

袴田さんはふっと体を翻して廊下の角を曲がっていった。

油断していたなと思ったと同時に、どこか見透かされてる怖さがあった。

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 職場の袴田さんが辞めるらしい、と同じくパートの年配の方から聞いた。 御年75を超える袴田さんは以前から腰が痛いと言って清掃業務中でも小休止を取りがちだったので、気になってはいたけど急な話だなと思った。 先日も少し離れたオフィスビルの一角の清掃に行くのに、しばらく歩いてはフェンス...