パッと浮かんだ事のメモとして、何かの根拠付けをする時は、相当厳密に行わないとガタガタの積み木になっちゃうよねって話です。
自然現象から一部を切り取って概念化し、言葉を作り上げる。そしてその言葉がちゃんとある物質や現象の概念を表現しているという状態にしてから何かしらの証明を組み立てていくのだが、言葉を使う以上は自然現象自体ではなくなり概念化している以上、自然現象に存在しているがカバーしていない、概念化したら無くなった領域に対して、ある事象に届かない、もしくは説明が不十分になる。
論理的にと組み上げたのに、現実から概念化し、言葉にするというプロセスがあるので、組み合わせた言葉同士の隙間が存在してしまい、また他の言葉を組み合わせて・・・としていくと隙間だらけになりうる。
ここで言う隙間とは「ある言葉に存在する概念化する際に拾いきれなかった部分」であり、そんな部分を持った言葉同士を組み合わせると、「なんとなく十分証明出来てるっぽい感じになる」という点である。
例えば「りんごには、あまいりんごと酸っぱいりんごがある。このりんごは酸っぱい。」という内容は成立しているが、現実を表してはいない。
もっと多種多様な品種があり、味も複雑化している。色彩も違うし、香りも違う。成熟度により全く違う味になる。酸っぱさも多種多様であるがそれが表現出来ない。それではりんご自体を表現出来ない。概念化はそのものの要素を取りこぼすのだ。実際のところ、りんごは全ての要素を合わせてりんごなのである。
じゃあ、「りんごには~もあるし、~もあるし~」と考えつくだけ書いたとしても十分ではない。味は主観的であり、個別に定数化するなり別の細かな基準を設けるなりするか。しかし、それでも表現が難しい。果糖がいくつだからとか書いた所で味の想像には至らない。でも、これが言葉として抽象化する事の限界となる。
なので、必要になったら新しい言葉を作ることになる。その中になるべく”隙間”がないような現実からの情報を突っ込んで概念化し、厳密な定義の元に言葉を作ることが肝要である。
でも、この”ある言葉”が出来た経緯は大抵の人には認識出来ない。ある日、突然ぽんと現れるような感じ。作り込まれているかとか、適当に投げ込まれたとか、そういう経緯はわからない。インパクトなり時代にフィットさえしてれば定着する可能性はある。
そして”ある言葉”が出来上がって定着した時点で、その言葉が”出来た”という事実に対して理由の説明出来ない説得力、要は”社会に存在してる感”が発生する。
これが厄介で、どんなに抽象化してて現実離れした穴だらけの言葉であっても「こういう言葉がある以上、大勢の人が同意なり求めているなりしてるだろう。」という風な解釈を押し付けることが出来る。
流行語なんかは特に緩い定義で成り立っている。
例えば「草食系男子」という言葉があった時に、「草食系男子は内向的で~、異性とのコミュニケーションに消極的で~」みたいな纏め方が出来るし、一時期、むしろ現代においてもそういう人物グループがはっきりと存在している、という認識が大多数であろう。
でも、「内向的とは」「異性とのコミュに消極的とは」「具体的にどういう状況でどういう行動を取っているか」「その理由は」と内容を細分化していくと実際は各人違う理由だったり、そう見えているだけだったりする事はままある。つまり言葉でのラベリングに引っ張られて、大雑把に印象が決定されてしまっている。
でも言葉にする段階で、人が理解できるような共通の論理性が求められる為、わかりやすいストーリーみたいなもので組み上げる必要があり、その時に大雑把な形で纏められてしまう。こういった意味で「流行りの言葉」は隙間だらけなのである。
要は流行ったりした「標準的な人間」は言葉としては存在する。でも、存在しそう感はあるけど、実際はそんな人いないよねっていう。
ここで”ある言葉””ある文章”を「論理的である」という扱いをする際に最も注意しなければならない。
たとえ言葉自体を極力矛盾が無くなるように最小単位での言葉の定義を作り、それらを組み合わせたとしても言葉には現実そのままを切り取る事は出来ない。概念化が挟まった段階で現実からの取りこぼしは必ず発生する。
そしてその言葉で組み上げた論理は取りこぼしだらけになっている可能性は十分にある。専門用語なんかで厳密に定義していくレベルでないと論理の組み立てがガタガタになってしまう。
なのに、ある事象を一絡げにして言葉に仕立てて、それを「存在している特定のグループ」くらいに世間に思わせてしまえる力が”言葉”や”論理的な文章”にはある。
だからこそ注意しないといけないのは、急に言葉が発生した時に印象に振り回されているという自覚をしないといけないのと、その裏側でどういう仕組みが動いているのかと警戒しないと、そこで発生した不安なりを誰かが使ってより増長させて、現実と乖離した”誰かが勝手に打ち立てて、そこから大勢の人たちの過剰な妄想で作り上げた歪に単純化されているズレた世界”が作り上げられてしまう。そこに便乗して人気を集めたり、稼いだりして発言権を持つようになった先にある世界は、果たしてその業界において正しいと言えるのか。
例えば「ファッションは売れたらそれがトレンドです。正義です。」みたいな価値観は広まるべきなのか。
僕は奥深さを毀損してまで広げるというのは、少なくとも現在十分に広まった段階でそれはあんまり正しいとも思わないし、健全とも言えない。(正しいか健全かどうかは個人の感想ですが・・・)
というのを、ここ最近のSNSファッションの「ダサオジ」の流れを見てて思った次第。
そういう「印象操作もファッションだ。」というのであれば、それはあくまで表象のみであり、ファッションに潜っていくともっと広がりのある楽しい世界が広がっているんだと思う。
そして改めて「ファッション」ってなんだっけ、どこまでがファッションの役割や効用なんだっけ、というのを考える時期に差し掛かってるのかもしれない。
ファッションがモテるという機能を持つのは具体的にどういった状況で?本人自身の容姿との兼ね合いは?場所は?トレンドがモテるというのは具体的にどういった根拠でどう観測出来るの?それらの定数化、もしくは定量化はどの程度まで可能?といったちょっとした事でも疑問は絶えない。
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