以前、ツイッターで"「TikTok」でとある本が紹介されていたが、そんなずさんな方法で紹介されてもなぁ・・・"みたいな感じで糾弾したことに対して炎上していた事があった。
個人的には、どんな事においても母数が大切だと考えている。母数が増えれば自然と競争が生まれ、そこから選ばれる現象が起きる。
もちろん文学でもそれは同じで、大勢が各自でより良いと思う表現を目指すことで多様性が生まれ、その中からその時代にフィットしたものが多く残るという構図は変わらないと思う。
ここで注意しなければならないのは、「時代にフィット」したものが選ばれるわけで、特定の価値観においては素晴らしいとされる作品は主流にはなれない可能性はある。
ただ、母数が十分にあればそれを発掘して見つける人はいる。どんな作品でも賛否両論であれ低評価であれ、一部のファンは存在することになる。全員がダメと言うケースはそうそう無い。
要は「特定の価値観において優れた作品」が発見されるには、投げかければ返ってくる環境を作る必要がある。其の為にまず母数を増やす事が重要である。たとえ一時的であれ1000人の読者が増えれば1~2人くらいは最低でも残るだろう。こうした積み重ねがジャンルの裾野を広げ、文化としての定着に繋がる。この点においてTIKTOKでバズって売れるという事は前提条件として考えられるほど重要である。
逆に、糾弾した人を「老害」と除けるのも違う。それらの批判はあくまで変化の為に必要な壁でもある。言葉は悪いが「老害」は「害」ではなく、生き残れる変化に至るための"壁"として重要である。
例えば、企業において「旧態依然のままではいけない!」と若い社員が上司にあれこれ提案する。しかし、上司は頑なで簡単にはその提案は通らない。老害が邪魔で変われない!上司は悪だ!みたいな話はよく語られている。
確かに変化させることを拒むというのはそれだけでも悪だと言われる事が多い。大体の物語の主人公は変革の為に動いてるわけだし、それらが正義として語られる場面が大半でしょ、と。
ただ、その上司による精査を突破できないようではそもそも上手くいかない、というケースは多いのではないか。
その分野に関して経験を持っている、知識を持っている。そんな人々が反対・批判する理由があるのであれば、その意見は無下にするべきではない。全ての反対・批判に対して考慮すべき、ということではないけど、大半は少なからず何かしらの含蓄がある可能性は高い。
むしろこのような"壁"がなければ変化は弱いものとなり、すぐに消滅してしまうかもしれない。変化する為にはそれなりの強度を持ち、その環境に存在する障害を跳ね除けて生存しなければならない。
そんなわけで、TIKTOKでバズった事も正しいし、それを批判したことも正しい。それらの相互作用がより強く生き残るバリエーションを生む源泉になっているのだろう。
ちなみに、最近また戦後の私小説(尾崎一雄、上林暁とか)をよく読んでるんですが、一時期バチクソに批判されていて、最近割と再評価の流れが来てるみたいで、今後も作家さんが増えたらなぁと思う次第です。
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